Blog


2026年 4月

退職後の8年を振り返って

 

 平成30年(2018年)3月31日に秋田大学を65歳で定年退職してから8年が過ぎた。この間に作曲したのはオーケストラ作品が2、吹奏楽作品2、室内楽作品4、合唱作品1、子供向けのピアノ作品1、校歌が6だった。そしてコンクールの受賞が2件、出版された作品は3。自治体委嘱のイベントの編曲の仕事も行った。小松耕輔作曲の『羽衣』のリメイクを約半年かけて行ったが、これはコロナ禍で上演が中止となった。

 こうして振り返ると、自分自身では手ごたえを感じたところもあれば、成果が中途半端だと思うところもあって、少し複雑な心境ではある。現在、最も心残りなのがオーケストラ作品のうちの1作品が未初演のままであることだ。何とか上演する機会を得たいと考えている。

 (画像は2023年9月東京都府中市で撮影)


2026年 3月

戦前のプロレタリア音楽運動

 

昨日(3月10日)、久しぶりに露木次男(つぐお)先生のお名前を拝見した。現在、露木先生のお名前を知る秋田県人はどれくらいいるだろう?先生は秋田県の本荘高等女学校(現由利高校)の音楽科教諭、本荘中学校(現本荘高校)教諭を経て秋田大学講師、助教授、聖霊女子短期大学教授をつとめられた作曲家である。私が秋田大学に赴任した当時、先生は79才くらいでご存命だったが(その頃は西目にお住まいだったようだ)、結局お会いする機会は無かった。

先生は明治35年(1902年)生まれ。戦前に作曲家の原太郎(現在の劇団わらび座の創始者)や石井五郎(現三種町出身で石井漠の弟。作曲家としてなかなかの経歴の持ち主)らと共に日本プロレタリア音楽同盟の構成員として活動しておられたが、私がそれを知ったのは先生が亡くなられてからずっと後のことだった。

昨日、国立国会図書館デジタルコレクションの送信サービスを利用して、1930年に発行された雑誌『音楽世界』(画像)を見ていたら目次に露木先生のお名前があり、それで十数年ぶりに先生を思い出したのだった。先生はこの雑誌に「1930年度に於ける日本プロレタリア音楽運動の報告」と題した論文を寄稿されていた。タイトルから昭和戦前期のプロレタリア文化運動を直ぐに想起させたが、論文を読んでみると、その運動の具体的な内容を知らなかった私には過激に感じられる文言が並んでいた。

「音楽芸術の階級制」「ブルジョア音楽」「ジャズや流行小唄の如きプチブルジョア音楽と我々のプロレタリア音楽との違い」「(日本プロレタリア音楽家同盟主催のイベントに)集められた聴衆は一般ブルジョア音楽家の全々考慮に入れられていない聴衆なのである」「動員せられた大衆は一人ひとり警官の身体検査を受け」「最近は歌詞なしのラララで歌うことさえも我々には許されない」「演奏法は唯単に上品であってはならない。どこまでもプロレタリア的でなければならないが、これに腕を振るとか或いは腕を互いに組み合すとかするジェスチュアを伴う必要とする」等々。

 そして更に読み進めると次のような一文があった。「音楽だけでは大衆の感情を興奮させ、高潮さすだけであって、演劇の如く如何に大衆は闘争すべきであるかと言うような暗示をなすことは出来ない。其処で我々の音楽は演劇の中に或いは映画の中に挿入される理である。」これは私の勝手な想像であるが、こういった思想が背景となって戦後の原太郎の移動音楽隊「海つばめ」の結成に繋がっていったのではないだろうか。ただ私の中では露木次男と原太郎はそれぞれ未だ「点」でしか把握できていなくて、「線」として繋がっていない。「海つばめ」は後に「ポプラ座」、そして民族歌舞団「わらび座」に改称され、現在の劇団わらび座に至っている。