中国・甘粛省蘭州市及び河西回廊地域の民族音楽


1991年、中国甘粛省の蘭州市にある西北民族学院にて、中央が筆者

(このエッセイは、秋田市の平成3年度短期文化研修生派遣制度事業で中国甘粛省の蘭州市と武威市に派遣された後に、秋田市へレポートとして提出したものです。)


1.はじめに

 

 標記を研修のテーマとして、平成3年9月に中国甘粛省の蘭州市と武威市(蘭州の北西240kmにある河西回廊の都市)を訪問した。私の具体的な研修スケジュールは蘭州市文化局が作成し、同局の陳世忠氏が研修中常に付き添って下さったが、音楽関係者の来訪は初めてということで段取りに難儀をしたらしく、スケジュールの変更やキャンセルが相次ぎ、当日の朝にならないと、その日の予定が判らないという有様であった。
  陳氏は私の研修の成果が上がるように懸命にサポートしてくれているようであったが、蘭州における取材は、当初期待していた程のヴォリュームは残念ながら得られなかった。また最初の段階では河西回廊地域の民族音楽の調査ということで、武威の他に張掖と酒泉及び敦煌の訪問を希望していたが、張掖と酒泉はキャンセルとなり、敦煌は他の研修生と共に莫高窟を1時間ばかり足早に見学しただけであった。であるから河西回廊地域とはいっても、武威の現状を垣間見ただけに過ぎない。夏河のラブロン寺のラマ教の音楽も取材したかったが、道路事情が悪いとのことで希望はかなえられなかった。
 民族音楽の研究家数名とも会見したが、皆手ぶらで来ており、資料を携えて来てくれた人は一人もいなかった。私の質問に対してはロ頭で答えるだけで、具体的な資料の提示が一切無かったのには閉口した。おまけに通訳を介しての取材でもあるので、報告内容の正確さという点では少々心もとないと言わざるを得ない。私の取材は以上のような状況下で行われたため、所期の目的からやや外れてしまう結果となったが、しかしながら現地へ足を運ばなければ知り得なかったことが実に数多くあった。そしてまた日本で予め読んでおいた文献に書かれていたことが、実際の音楽に触れてリアリティーのあるものとして、ある程度理解出来たことは何よりの収穫であった。


2.蘭州及び武威の音楽事情

 

 甘粛省はまさにシルクロード・ステイトと呼ぶにふさわしく、8,000kmにわたるシルクロードの約5分の1が、この東西に細長い省の中心部を走っている。この度の研修の目的は、この地域において伝承されている民族音楽を取材し、現代のシルクロードの音楽文化の一端に触れることであった。古代のシルクロードの音楽については林謙三や岸辺成雄らの研究があるが、さて現代はどうなのかというと、数少ない文献を読んでみても、私にはさっぱり見当がつかない状態であった。
 研修初日に蘭州市の音楽関係の代表者3名と会見したが、この中で今回の私の研究分野に関連があり、しかも研究者と呼べるような人は小数民族音楽協会理事の楊鳴鍵氏ただ一人だけであった。楊氏は甘粛省群衆芸術館―群衆とは、労働者や農民に対して文化的な普及活動を行う役所である―に勤務しておられるので、私は氏のオリエンテーションに大いに期待をしたのであるが、寡黙な氏がもたらしてくれた情報は僅かなものだった。仕方なく、私の極めて乏しい知識を総動員しての取材開始となった。さて、中国の民族音楽は「民謡」「語り物音楽」「地方劇」「伝統楽器の音楽」の4つの分野に分けられるが、以下は蘭州と武威の音楽事情についての分野別のレポートである。

 

(1)民謡について

 

 楊氏は民謡(民歌)の調査研究が専門で、10年がかりで甘粛省の民謡14,000曲を採集したそうである。私の希望に応えてその中からユイグー族の民謡『私はユイグー族の娘』と『紫紅の檀香』を歌ってくれた。ごく短い、素朴な歌であった。氏は「地方は経済の発展が立ち遅れており、文化のレヴェルは低いが、民族音楽は盛んである。(蘭州市にある)西北師範大学の音楽学部では伝統音楽を学習することになっており、人民政府も力を入れている」と語っていた。(西北師範大学の見学は今回の研修の予定には無く、取材出来なかった。)また「漢民族の音楽は蘭州よりも武威の方で盛んである」とも言っていたが、私は後日その武威において、中国西北地方の代表的な民謡の一つである『花児』(ホウル)を聴くことが出来た。
  『花児』は男女の恋を歌った曲であるが、民族によって異なる幾つかのバージョンがあるらしく、回族の方が歌って下さったのは『妹妹山丹紅花咲』という曲名だった。『花児』の起源は、蘭州市から南西160kmの臨夏であるといわれているが、臨夏は甘粛省回族自冶区の首府の所在地で、回族の他、小数民族が多く住んでいる地域である。楊氏は、そこへ行けば多くの民謡が聴けるだろうと話しておられたが、今回の研修プログラムには含まれておらず、残念ながら割愛せざるを得なかった。
 武威では、武威地区群衆芸術館、及び武威市文化館の方々と会見した。その中のお二人が武威の民謡『張先生拝年』と『閙午更』を歌って下さったが、内容はいずれも男女の恋愛を描いたものであった。武威(涼州)はかつてのシルクロードの要衝の都市であり、古代の東西文化交流の拠点であったため、武威の民謡には周辺の青海省や内蒙古自治区のものが含まれており、また多くが西方から伝わって来たものであるとの説明だった。また、わらべ唄は無いのかという質問に対しては、子供の歌は非常に少ないという意外な返事が返って来た。
 武威における民謡の調査研究は1980年から始まり、現在民謡の採集に当たっているのは若い黄柏元氏であった。しかしながら黄氏はこの会見中は無言であった。私は彼の上司から説明を受けたのであるが、彼は、その内容については異論がありそうな素振りを示したのであった。私は実質的な担当者である黄氏にも話を聞きたかったのだが・・・。

 

(2)語り物音楽について

 

 中国の語り物音楽(説唱音楽)は、後に述べる戯曲と並んで、中国人の間に深く浸透しているジャンルである。日本の語り物と同様に演技は無く、語りと詠唱により構成され、故事や人物を描く。孫玄齢は「人々の音楽生活の中で大きな位置を占めていた語り物音楽であるが、今ではもう古典になってしまっている」と述べているが(同著『中国の音楽世界』岩波新書)、私は武威の街頭で、この大衆芸能が脈々と息づいている場面を見ることが出来た。
 その場所へ案内してくれたのは、なんと先刻沈黙を守っていた黄氏であった。歩道の広くなっているところに日除けのテントを張り、細長い粗末なテーブルとベンチを並べただけの即席の茶店のような場所で、盲目の三絃奏者が弾き語りをしているのであった。演奏していたのは『歌歌勧妹妹』という曲で、ある一人の女が結婚してから町で兄と久しぶりに出会い、自分の惨めな生活ぶりを語るというもので、曲の終わりには落語のようにオチがあるらしく、私に付き添った通訳は周囲の人々と一緒になって笑っていた。あたかも場末の演芸場といった雰囲気であった。三絃の弾き語りを生業とする者は皆盲目で、身なりはみすぼらしく、最下層に生きる人のようであったが、三絃のテクニックは実に素晴らしく、いつの間にかその世界に引き込まれてしまっていた。
 最初に会見した楊鳴鍵氏は「語り物音楽は華北地方を中心に発展した。歌は古代の人々の生活を反映したものであるが、根底にあるのは儒教思想である」と話していた。黄柏元氏の説明にも「語り物音楽を通して、無学文盲の人々が人としての生きる道を学んだのだ」とあったが、黄氏は「儒教ではなく、仏教の教えである」と主張された。また、その起源についても氏は「唐の時代に、銭という盲目の女が寺に入って仏教を学び、その教義を弾き語りによって分かり易く、無学な階層に広めたのだ」と語っていた。
 西北地方には『賢孝』という明代の有名な語り物の曲がある。このタイトルからして如何にも教訓的内容であることが伺えるが、地域によって異なる幾つかのバージョン(流派?)があるようで、青海省では『西寧賢孝』、臨夏では『河州賢孝』、そして武威では『武威賢孝』というように、それぞれの地域の名を付して区別しているようである。

 

(3)地方劇について

 

 中国で「戯曲」というのは、中国の伝統的な民族形式の歌劇のことである。戯曲は中国人の生活の中に溶け込んでおり、前述の語り物音楽と同様に、無学文盲の人にとっては知識の吸収源であった。故に民間における教育手段としての機能も合わせ持っていたと言えるのである。日本では京劇が最も良く知られているが、京劇は、実は三百種とも、あるいは五百種あるともいわれる地方戯曲の一つに過ぎない。「地方劇」は、元代の「雑劇」、そして明代の「崑劇」に続いて清代に起こったもので、京劇は清代末期に誕生した地方劇なのである。地方劇の特色は歌詞が平易で、その土地の民謡が取り入れられ、語り物など民間芸能の要素が吸収されていることから、生活の息吹が感じられることである。密接にその土地の方言と結びついているので、その地の観客には特に親しまれている。日本の古典演劇と異なる点は、この強烈な土の香りがする地方性である。(しかしながら、その点では京劇は、非常に洗練されてしまっているという印象を受ける。京劇はもはや全国的な劇種である。)
 さて私は甘粛省の地方劇「秦劇」のリハーサルを見学するために、武威市の「武威地区秦劇団」を訪問した。説明をして下さったのは舞台監督の張銘文氏であった。(張氏は回族で、回族の『花児』を披露して下さったのはこの方である。)
 バンズという拍子木を打ち鳴らして歌うバンズ劇の発祥の地は隣の陜西省東部の同州であるとされている。明代中期には既に西北地方に生まれていたことは、1958年に敦煌で明代のバンズについて書かれた石碑が発見されて明らかとなった。バンズは清の乾隆帝(1735~1795在位、無類の戯曲好きで知られる)の時代に四川出身の魏長生という俳優が北京に伝え、魅力に溢れた演技で庄倒的な人気を得たが、夢中になり過ぎる者が多く、政府は風俗を乱すものとしてバンズを北京から追放してしまう。しかしバンズは北京以外の各地で大衆に愛好され、そして地方性が加味されて様々なバンズが生まれ、さらに発展したのであった。バンズは陜西省でも盛んとなり、秦劇(秦は陜西の古称である)と名を変えて現在に至っている。であるから武威の秦劇は武威独自のものではなく、陜西省から伝わったものなのである。私が見学したのは『趙氏孤児』という元代に書かれたテキストに基づく悲劇だった。本来は全曲を通して5日間かかるところを、2、3時間程度にまとめたダイジエスト版を使って練習していたが、これはこの劇団の代表的な出し物なのだそうだ。張氏は団のレパートリーは20曲以上あると話していた。


 戯曲の伴奏楽団ことを「場面」と呼ぶが、打楽器には大鑼、小鑼(これらはいわゆる銅鑼)、小型シンバル、単皮鼓(かなり甲高い音質のトムトム)、拍板(カチカチという乾いた音がする)が使われていた。左手に拍板、右手に単皮鼓を叩くバチを持ち、両楽器を打奏する者が指揮者の役目をする。この人は俳優の演技の呼吸を見計らいながら全体の音楽を進行させなければいけないので、非常に重要な役割を担っている。演技や歌唱に際して、これらの打楽器が派手に打奏されるのがバンズ劇の特徴である。弦楽器には板胡、二胡、琵琶、三弦、揚琴が用いられていた。そしてこれらの伝統楽器に加えてヴァイオリンが2本、チェロ、オ一ボエ、クラリネットが各1本ずつ使われており、西洋楽器は音色のコントラストを作るために用いているとの説明であったが、実際の音楽は対位法的に展開されているわけではなく、京劇と同じ様にユニゾンがやたらと多い。そして殆どがTutti(全合奏)であるので、強弱や、様々な楽器の組み合わせによる音色のコントラストは無きに等しい。団専属の作曲家のオリジナルなのだそうだが、私にはどうもピンと来なかった。

 劇団の活動は農村の巡回公演が中心で、市内の劇場で演じることは少ないそうである。練習は一日6時間、週36時間の労働である。団員は「文芸工作者」と呼ばれ、給科は国家から支給される。(文芸工作者は芸術学校を卒業後、国家の命によって各地の地方劇団に配属される。)

 

(4)伝統楽器の音楽について

 

 伝統楽器の音楽は私の最も関心のある分野であったが、蘭州市において取材出来たのは僅かであった。古代中国において、孔子も愛用したといわれる古琴(七絃琴)の演奏者は現在甘粛省には6名しかおらず、私は蘭州市における唯一の古琴奏者の張思隋氏と会見した。張氏は蘭州市第九中学校の国語の教師であるから、プロの演奏家ではない。演奏を聴かせて頂いたが、失礼ながら私には第一級のものとは思われなかった。張氏は父親から演奏法を習い、現在使用している楽器も父親が作ったものだそうで、調絃し易いように自分で改良したと語っていた。

 演奏は、この度の私の来訪を記念して作曲したという、李白の詩をテキストとした氏のオリジナル作品に始まり、続いて古典曲『渭城曲』を演奏して下さった。古典の名曲には『広陵散』『幽蘭』『酒狂』等があるが、いずれもかなり古い時代の作品で、これらは数百年の間演奏されなかったが、古代の琴譜の研究によって再現演奏されるようになったものである。張氏からプレゼントされた古典曲のテープを聴いたが、静謐で神秘的な、聴きようによっては暗く沈んだ重々しい音楽である。しかしながら、ゆったりとしたテンポで展開してゆく中に、ハーモニックス奏法や微妙な音色の変化が認められ、現代的な感覚にも通じる部分があり、その点では興味深かった。
 古琴の演奏スタイルには4種類あり、独奏、笙と古琴の二重奏(同じメロディーをユニゾンで演奏する)、2台の古琴による二重奏、そして弾き語りである。また幾つかの流派があるそうで、張氏は「広陵派」に属しているとのことであった。氏は「清代に古琴の音楽はすっかり廃れてしまったが、1920年代に復活し、解放後、北京に中国民族音楽研究所が設立され、民族音楽の研究が進み、成果を上げた。しかし文化大革命によって再び衰徴してしまった」と語っておられた。

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 大学における伝統音楽の教育状況を視察するため、私は蘭州市にある「西北民族学院」の音楽舞踏系(学部)を訪れた。同学院は中国西北地区(甘粛省、陜西省、青海省、宇夏回族自治区、寧夏新彊蔵族自治区の5つの省)に居住する小数民族のための、12もの学部を有する総合大学である。1950年に創立され、文化大革命までは共産党幹部の養成機関であったが、文革による10年の中断の後、1978年に復活、音楽は美術学部に吸収されて出発し、ようやく昨年6月に「音楽舞踏系」として独立したとのこと。
 同学部は音楽と舞踏の専門家や教師の養成を目的としており、卒業後は各地方の歌舞団や群衆、あるいは放送局等に就職するという。現在の学生数は106名で、16種もの小数民族が入学しており、漢民族は全体の5%を占めるに過ぎない。また学生の多くは附属学校の卒業生である。(中国の一般の中学・高校は一貫教育の6年制であるが、ここの附属学校は5年制である。)学部の教育課程には4つのコースがあり、器楽または声楽を専攻する4年コースと3年コース、舞踏を専攻する5年コース、そして学部のカリキュラムを履修出来る能力を有しない学生のために、派遣学生として附属学校へ戻し、基礎教育を受けさせるコースがある。尚、来年には作曲のコースが設置されるとのことであった。入学試験は日本と同様に、全国共通のテストと専門の実技試験が課せられるが、しかし、その試験や入学後のカリキュラムは専門性という点で、どうも音楽大学レヴェルほどではなさそうだ。確認はしていないので確かなことは判らないが、学生が専攻する分野別に、例えぱ「ピアノ科」というように、縦割りで学生定員を決めて教えるという教育体制ではないようである。


 伝統楽器の演奏で受験する者の数は多くはないが、学部には揚琴、二胡、古箏、琵琶、竹笛の授業があり、そのための専任教官を揃えているとのことであった。西洋楽器の授業には、ヴァイオリン、チェロ、フルート、クラリネット、ピアノ、アコーディオンがあり、イタリア歌曲等を学習する声楽の授業もある。西洋楽器(音楽)を専攻する学生の履修するカリキュラムの五分の四は、ヨーロッパ音楽に関するものであるが、残り五分の一は中国伝統音楽についての学習である。「作品分析」の授業では小数民族の音楽(民謡など)を取り上げているそうだ。尚、専攻の如何にかかわらずピアノは全員必修である。ピアノの個人練習室は34室あり、伝統楽器の個人練習もそこで行う。音楽の専任教官は36名で、学生3名に対して教官1名の割合となっており、教育環境としては申し分ない。卒業時には卒業演奏会が開催され、学習の成果が披露される。しかし卒業の要件は演奏だけではなく、論文も提出しなければならない。卒論のテーマは学生自身で決めるのではなく、指導教官から与えられた幾つかのテーマの中から選択するのだそうだ。
 教官一人当たりの受け持ち時間は12~18時間であるが、教育活動にエネルギーを費やしているようで、個人の研究活動を外部に発表するというようなことは殆ど無いらしい。ただ民族音楽に関する調査・研究活動の成果については、学会誌等を通じて発表しているようである。教官の研究費は毎年一定の額が配分されるわけではなく、研究テーマと必要額を申告した上で決定されるそうで、この点では、我が国よりも厳しいという印象を受けた。

 さて私は、余り広いとは言えないレッスン室で、琵琶を専攻する女子学生の演奏を聴かせてもらった。その学生は一年生で17才であるが、附属学校で5年間鍛えられただけあって、なかなかの出来栄えであった。演奏した曲は『イー族舞曲』という60年代に作曲された作品だった。私が何か別の楽器の演奏が聴きたいと申し出たところ、案内してくれた方光耀氏(竹笛の教官)が『幽蘭逢春』という曲(78年作曲)と、『鷹』という曲(80年作曲)を披露して下さった。前者は伝統的な旋律線による、極めて民族色豊かな作品であった。後者は方氏と氏の師匠との合作で、小数民族の塔吉克族の音楽を取り入れた作品であるとの説明であったが、西欧音楽的なフレーズがところどころに顔を出し、様式の混乱が見られる作品であった。

 

3.おわりに

 

 孫玄齢が指摘しているように(前掲『中国の音楽世界』岩波新書)、中国の伝統音楽は日本のそれとは異なり、時代と伴に大きく変化し続けているようだ。ある人はその事に関して琵琶を例に挙げて、宋代には横に構えて演奏していたが、現代では立てて演奏していると説明していたが、私がより強く感じたのは、そういった演奏法よりも音楽の様式そのものの変化であった。日本の伝統音楽は、「保存する」ということに意が注がれているため、変化することを好まない傾向があるが、中国で出会った音楽には、外来の音楽の要素が何らかの形で取り入れられているものが多かったように思う。民謡のテープを現地で何本か購入したが、ポップス調にアレンジされていたり、日本の演歌ふうであったりして、中国人のこのような民謡の楽しみ方は私にとって意外であった。古い伝統を誇る地方劇でさえ西洋楽器を取り入れていたのには本当に驚いた。歌舞伎の下座音楽に西洋楽器を加えるようなもので、そのようなことはまず日本では考えられない。しかし私は日本の26倍もの国土を持つこの広大無辺な大陸の音楽文化のごく一部を、ほんの少し覗き見ただけに過ぎないのであって、このような捉え方は一面的に過ぎるのかも知れない。

 

(1991年執筆)