フランスの作曲家たちのゆかりの地を訪ねて~ローマ、パリへの旅~


 

 

 この旅のきっかけとなったのは、私が2001年のロンドン滞在中にふと立ち寄った本屋で見かけた"Paris ― A Musical Gazetteer"(『パリ-音楽地名辞典』 著者:Nigel Simeone  出版:Yale University 2000年)という本であった。そこにはパリにゆかりのある作曲家が、パリの何処の場所と関わりがあったかが詳細に述べられていて、住所まで書いてある。そしてパリの何処の墓地に埋葬されたかまで書いてある。またフランス出身の作曲家はもちろんであるが、例えばモーツァルトやリストたちが演奏旅行中にパリの何処のホテルに宿泊したかなんてことまで書いてある。
 私が興味を持ったのはフランス近代の作曲家に関する記述であった。ラヴェルが晩年に住んでいたパリ郊外のモンフォール・ラモリーの家は博物館として公開されていることは既に知っていたが、この本と出会って、特に彼と関わりのある場所にはいつか機会があれば行ってみたいという気持ちが一層強くなった。
 しかしそれからずるずると8年も経過してしまい、そろそろ行っておかないと駄目かなと思い始め、意を決して行くことにした。パリに行く前に先ずローマへ旅立った。

 

1.旅はローマから~ヴィラ・メディチ~

 ローマのヴィラ・メディチにて(2009年)

 19世紀から20世紀前半のフランスの作曲家たちにとって、ローマ賞を受賞し、ローマへ留学することは一流の作曲家への道筋であった。この賞には絵画部門や建築、彫刻部門などもあるが、音楽部門は作曲コンクールであり、30歳以下の若手作曲家の登竜門となっていた。一等賞の受賞者には3年間ローマのヴィラ・メディチ Villa Medici での寄宿生活が保障される。
 一等賞を受けた著名な作曲家にはベルリオーズ、グノー、ビゼー、マスネ、ドビュッシー、フローラン・シュミットらがいる。ベルリオーズやドビュッシーがローマ留学中にパリへ帰りたがっていたという話や、ラヴェルが度々挑戦したが受賞することが出来なかったということはよく知られている(ラヴェルは5回応募して、最高でも三等賞に止まり、ローマ留学を果たせなかった)。
 私が学生の頃に読んだ池内友次郎先生訳・編の『パリ楽壇70年』(アンリ・ビュッセル著、音楽之友社)という本の中で矢代秋雄先生のヴィラ・メディチの紹介があり、一等賞受賞者が寄宿生活を送ったローマのヴィラ・メディチとは一体どういうところなのか、大変興味があったので行ってみた。

 ローマで宿泊したホテルはローマの玄関口であるテルミニ駅のすぐ側だったので、オペラ座の前を通り抜けて、クワトロ・フォンテーネ通り、そしてレスピーギの『ローマの泉』に登場する「トリトンの噴水」があるバルベリーニ広場を通り過ぎ、システィーナ通りを真っ直ぐに北西の方向に進んで行くと、トリニタ・ディ・モンティ教会の前に出る。ヴィラ・メディチはその教会のすぐ向こう側にある。(トリニタ・ディ・モンティ教会は有名なスペイン広場の階段を上がったところにあるので、これを目当てに向かって行ってもヴィラ・メディチには辿り着ける。)下の画像の白亜の建物がヴィラ・メディチである。

 そしてその入り口。↓

 入り口の上に "ACADEMIE NATIONALE DE FRANCE" の文字が見える通り、この建物は在ローマ・フランス・アカデミーのものである。前述の矢代先生の文章には「1803年にナポレオンが買い取ってフランス翰林院(学士院)のものとして現在に至っている」と記してある。建物の内部は、立ち入り区域に制限があるが、一般公開されているので入場料を払い、中に入って見ることが出来た。

 

 下の画像はヴィラ・メディチの全景である。誠に豪奢であり、往時のメディチ家の権勢を彷彿とさせる。(メディチ家は数百年に渡ってフィレンツェを支配していた家柄で、文芸保護者として特に知られている。) ローマ賞受賞者たちが、この建物の何処で生活していたのか、あるいは敷地内の別の建物に住んでいたのかガイドを務めていた若い学生風の人に聞いてみたが分からなかった。

 ↓中には使われていない小部屋があったが、外観とは違い、誠に質素である。天井はかなり高い。

 ↓建物の内部から庭へは暗い石の螺旋階段を上っていったが、この時、矢代先生が「陰気な階段」という表現で書かれていたのを思い出した。

 ヴィラ・メディチは高台にあるので、ここからはローマを一望出来る。遠くにバチカンのサン・ピエトロ寺院のドームも見える。

 庭には噴水があった。レスピーギは交響詩『ローマの泉』の最終楽章として「たそがれのメディチ荘の噴水 La fontana di Villa Medici al tramonto」を書いているが、広い敷地のヴィラ・メディチには他にも噴水があるかも知れず、これを描いたのかどうかは分からない。


 ローマ賞受賞者たちは、こういった生活空間の中で数年間を過ごしていたわけだ。前述したフランス近代の主要な作曲家たちが、一様にこの場所において留学体験をしたこと、そしてローマ賞という制度が19世紀から20世紀前半までのフランス音楽を豊かに支え続ける役割を担っていたという歴史的事実は誠に興味深いと言わねばならない。

 

2.続いてパリ

 

 前項のローマ賞はパリ音楽院の作曲科の学生に受賞のチャンスが与えられるのであるが、ドビュッシーやラヴェルらが通った旧パリ音楽院は現在は「国立高等演劇学校」として使われている。


 

 ラヴェルが、その中期に相当する1908年から1917年まで住んでいたアパート(下の画像)は凱旋門とは目と鼻の先くらいの近い位置にある。1階がカフェになっている。彼が何階に住んでいたかは分からない。ラヴェルがローマ賞に応募した最後の年が1905年だったから、その3年後から住みだしたことになる。ラヴェルはここで中期の傑作を次々と生み出す。『マ・メール・ロア』『ダフニスとクロエ』『優雅で感傷的なワルツ』『ピアノ・トリオ』『クープランの墓』などだ。

 ちなみにここの写真を撮っている時に、通りかかった人から「お前はなんでカフェなんかの写真をそう熱心に撮っているんだ?」と流暢な英語で尋ねられた。確かに他の観光客は皆が皆凱旋門で撮っているのだから無理はないが、フランスを代表する作曲家ラヴェルが住んでいた場所だったということは好事家でない限り地元の人でも知らないのかもしれない。

 ↓壁面に掲げられているプレート

 ストラヴィンスキーの『春の祭典』がパリのシャンゼリゼ劇場(下の画像)で初演されたのは、ラヴェルがこのアパートに住んでいた1913年のことだが、ストラヴィンスキーが初演時に宿泊していたホテルはラヴェルのこのアパートとは通りを挟んで向かい側にあったそうである。

 

 ↓シャンゼリゼ劇場

 

 

 モンフォール・ラモリーヘ

 

 パリ郊外、モンフォール・ラモリーのラヴェルの家にて(2009年)

 

 ラヴェルが晩年の1921年から亡くなる1937年まで住んだ家(前述のアパートを出てから4年後に移り住んだ最後の家)はパリ郊外のモンフォール・ラモリー Montfort-l'Amaury にあり、博物館として一般公開されている。但し訪問には事前予約が必要で、一つのグループは7名までしか中には入れない。(6名までという記述もある。私が入った時は6名だった。)ここへ行くにはモンパルナス駅から国鉄SNCFに乗り、Montfort-l'Amaury-Méré という駅で降りる。


 ↓駅からこのような道を40分くらい歩く。

 ↓ラヴェルの家の前に出た。可愛らしい小さな家だ。

 壁面のプレート。

 ↓玄関を入るとすぐ右隣の部屋に通された。食器戸棚があったからダイニング・ルームのようだ。とても綺麗なデザインのスプーンがあったが、ロシア・バレエ団からプレゼントされたものとのこと。

 ↓この部屋にはバルコニーがあって、ここからの外の眺めはなかなか素晴らしい。ラヴェルはとても気に入っていたそうだ。

 家の裏には庭もある。ラヴェルは家庭菜園をしていたそうだが、ガイドによれば、それはこの庭ではなく別の場所でやっていたとのこと。

 ↓わずか3畳くらいの狭い書斎。浮世絵が数点飾ってあった。この部屋以外にもラヴェルの家の中には予想以上に浮世絵がたくさん飾ってあった。浮世絵の他には中国製の陶器や置物、玩具などが一杯あって、どこかメルヘンの世界に生きていた人のような印象も受けた。画像の浮世絵の下に見える木製の箱のようなものは蓄音機である。


 下の階にあるラヴェルの仕事部屋(ピアノのある部屋)でピアノを弾かせてもらったが、タッチが軽快で非常に弾きやすい感じがした。この部屋も狭く、訪問グループの6名とガイドだけでもう満杯状態だった。とにかくこの家のどの部屋も狭く小さい。そのことに関して、背が低かったラヴェルに合わせて設計し直したのだという説があるが、ジャン・エシュノーズという作家はこれを否定している。この家はそう金持ちでもなかったラヴェルがパリ郊外に家を求めた時に買える予算内の物件であり、バルコニーからの見晴らしの良さで買ったのだと言っている。(同著『ラヴェル』みすず書房)
 実際訪れてみると、終生独身だったラヴェルが一人で住むには十分なスペースだったろうし、作曲の合間にバルコニーから外を眺めたり、街中を散歩するには実に理想的ないい環境であると思われた。面白いと思ったのは<お隣さん>の喋っている声が結構聞こえてくるのだ。いかにも郊外型住宅地の家らしくて微笑ましかった。ラヴェルはこの家で『展覧会の絵』の編曲、『ツィガーヌ』『子供と魔法』『ヴァイオリン・ソナタ』『ボレロ』『左手のためのピアノ協奏曲』『ピアノ協奏曲ト長調』などを作曲した。

 ラヴェルの家を訪問した翌日に、パリ市内にあるラヴェルの墓に詣でた。墓にはラヴェルの両親と弟とが一緒に埋葬されている。前掲のエシュノーズの本には、ラヴェルは「モンフォールとパリとの行き来に疲れ、彼はルヴァロアに住む弟の家の中に小さな仕事部屋を作らせた」とあったから、墓がモンフォールでなくパリのルヴァロアにあるのはこの辺の事情からかも知れない。なお弟は1960年に亡くなっている。墓石の上の向かって左側に父親、右側に母親、中央にラヴェル、その下に弟の名が刻まれている。


 

 サン・ジェルマン・アン・レー

 

 ドビュッシーの生家がパリ郊外のサン・ジェルマン・アン・レー Saint-Germain-en-Laye にあり、建物の2階が博物館になっている。博物館と言っても随分慎ましいもので15分もあれば見学が終わってしまうような展示しかないが・・・

 ドビュッシーの墓はパリ市内のパッシー墓地にある。墓地の受付で地図が配られているので、広い敷地の墓地ではあるが、何とか見つけられた。

  ↓同墓地にはフォーレの墓もある。

 

 ポリニャック公爵夫人邸

 

 前述のパリのパッシー墓地の裏手になるが、ほど近いところにポリニャック公爵夫人の館がある。一般公開されていないので建物だけの撮影。

 ポリニャック公爵夫人は近代フランス音楽の重要なパトロンだった人物で、本名は Winnaretta Singer 。シンガー・ミシン(ミシンのメーカー)の相続人ということくらいしか知らないが、相当な資産家だったことは確かである。この美しい建物は20世紀初頭のパリの芸術運動の重要なセンター的役割を果たしていたそうである。この人物による委嘱作品はフォーレの『ペレアスとメリザンド』の付帯音楽、ラヴェルの『亡き王女のためのパヴァーヌ』やストラヴィンスキーの『狐』などがある。建物内には250名収容可能なグランド・サロンがあり、そこでは数々の音楽史的にも重要なパフォーマンスが繰り広げられていたのだろう。冒頭に紹介した『パリ-音楽地名辞典』には、ストラヴィンスキーの『オイディプス王』の公開初演前にストラヴィンスキーのピアノで作品のお披露目があったと記されている。


 

 その他に・・・

 

 ↓モンマルトルにあるサティが住んでいた家。

 


 ↓オリビエ・メシアンが長くオルガニストを務めていたサント・トリニテ教会。実に堂々とした風格の教会である。私が宿泊していたホテルの割合近くにあった。この教会の正面の道を真っ直ぐに行くとパリ・オペラ座(ガルニエ)がある。

  パリではその他にもいろいろな場所を経巡ったが割愛する。

 

(2009年執筆)