20世紀のイギリス音楽


2002年、ロンドンにて


 19世紀のイギリスは独創性に溢れた優れた才能を持った作曲家を生み出すことが出来ず、ドイツ人から「音楽の無い土地」と揶揄されたほどであった。エドワード・エルガー Edward Elgar (1857-1934) は長く続いたイングランドの音楽的空白を埋めるかのように現れたが、ヨーロッパ音楽史の流れの中で捉えると、その作風はノスタルジックで懐古的であると言わねばならない。エルガーが実質的に才能が認められたのは変奏曲『謎』Variation on Original Theme "Enigma", Op.36 (1889) であるが、この作品は恰もブラームスの『ハイドンの主題による変奏曲』をリフェレンスとして作曲したかのようである。エルガー自身が創り出したオリジナルな技法でなく、ドイツ・オーストリアの伝統的な技法によって書かれた作品を以て20世紀イギリス音楽の幕開けを予告するのは、如何にもその後のイギリス音楽の特異な軌跡、つまり国内で新しい動きが生まれ、それが発展していくという形ではなく、外からの刺激を受けてからその後を慎重な姿勢で追いかけていくというイギリス人作曲家全般に見られる保守的な傾向を象徴しているかのようである。 


 エルガーが後期ロマン派的作風を示したのに対して、同じ時期に活動していたフレデリック・ディーリアス Frederick Delius (1862- 1934) は "English Debussy" と呼ばれたように印象主義を包含した作曲家であった。その意味ではディーリアスはエルガーよりもコスモポリタンであったし、作品もまたよりモダンである。これはフランスに定住し、ラヴェルやフローラン・シュミットなどと親交があったことや、作曲のインスピレーションの源を北欧文化に拠ったことと大いに関係していると思われる。作品の多くがノスタルジックな雰囲気を持っているという点では同時代の他のイギリス人作曲家と同じ傾向を示しているのであるが、ポスト・ワグネリアンの世代にしては非常にロマンティックで音楽の展開が感覚的である。


 ジョン・アイアランド John Ireland (1879-1962) は多くの作品を小さな形式で書いたミニアチュリストであった。オペラや交響曲などは一切書かなかったが、最大の功績は何と言っても歌曲に優れた作品を多く残したことで、それまで自国の言語による芸術歌曲の創造が決して豊かであるとは言えなかったイギリスは、アイアランドによってこのジャンルの穴を埋めることが出来たと言っても過言ではないだろう。しかしその書式にはフォーレやドビュッシーなどフランス歌曲の影響が認められる。


 アーノルド・バックス Arnold Bax (1883-1953) は1920年代から30年代にかけて一世を風靡した作曲家であった。しかし現在ではCDは出版されているものの、作品が演奏会のプログラムにレギュラーで取り上げられることは無くなってしまった。7つの交響曲や数多くのピアノ曲を作曲したが、交響詩に『ティンタジェル』 "Tintagel" (1919) など注目すべき幾つかの作品がある(脚注参照)。アイルランド人ではないのにアイルランドの文学やフォーク・ロアに題材を得て作品を書いたというところがバックスの特徴なのであるが、作風はワーグナーやリヒャルト・シュトラウスの影響が濃厚で、その意味では題材の地域性と音楽の語法にある種のギャップが感じられる。 

             
 大戦前のイギリス音楽について語る場合に、必ず触れなければならないのがナショナリズムの影響である。この時代の避け難い風潮として、国家的アイデンティティーを音楽においても示すことが求められたのであるが、しかし当時のイギリス音楽はエルガーの作風に示されるようにドイツ・オーストリア音楽の強い影響下にあり、イギリス独自の音楽語法の創出によってその状況を打開することが強く求められていた。作曲家達はイギリス民謡のリバイバルによってこの問題を解決しようとしたのであったが、その火付け役となっていたのがセシル・シャープ Cecil Sharp (1859-1924) であった。彼の主張はヴォーン=ウィリアムズ Ralph Vaughan Williams (1872-1958) 、グスタフ・ホルスト Gustav Holst (1874-1934) 、ジョージ・バターワース George Butterworth (1885-1916) らに強い思想的インパクトを与え、自国の民謡に対する大きな関心を呼び起こすきっかけとなった。そして民謡復興を軸とした活動は主に1870年代及び1880年代生まれの作曲家達によって推進されて行く。この世代の作曲家達はイギリス民謡のリバイバルによって導き出されたいわゆる「パストラル様式」というものを作り上げるのであるが、今日私達が最も「イギリス的な音楽」として認識し、広く知られているのがこのパストラル様式の音楽であると言える。シャープの仕事は日本ではまず殆ど知られていない。しかし20世紀前半のイギリス音楽の流れを決定付けたキーマンとして見過ごせない人物である。シャープは4千曲以上の民謡を収集したと言われ、その中にはヴォーン=ウィリアムズと共同で集めたものもある。


 ヴォーン=ウィリアムズは民謡を取り込むことで自らの語法を確立したが、実はこの時代のナショナリズムの動きを最も反映した作曲家なのであった。彼は国家的アイデンティティーを示し得た芸術家として、第2次世界大戦後は次第に偶像化されてしまう。ヴォーン=ウィリアムズの技法の注目すべき点は丁度ハンガリーのバルトークのように、民謡のエッセンスを消化吸収して自身の音楽的イディオムとして作り上げることに成功したことにある。


 ホルストもまた前述したように民謡復興の動きに刺激を受けていた作曲家であったが、ヴォーン=ウィリアムズとは違った方向を向いていた。ホルストは自ら進んでサンスクリットを学ぶほどインド哲学やインド文学に熱中し、東洋の神秘主義と西洋の印象主義をブレンドしたような作風を示した。代表作『惑星』 "Planets" (1914-17) は占星術に凝っていた時期の作品であるが、彼の管弦楽作品で現在レギュラーに演奏されるのは実はこの1曲だけなのである。しかしたった1曲だけであってもインターナショナルな名声を勝ち得たイギリス人作曲家の一人ではあった。


 ジェラルド・フィンジー Gerald Finzi (1901-56) の管弦楽作品は今日では演奏会で取り上げられることはなくなってしまった。フィンジー は様々なジャンルの作品を残したが、業績として現在評価されているのはアイアランド同様主に歌曲である。フィンジーはロンドン生まれであるが、生涯を通じてイギリスの田園地帯の自然風土に愛着のあった人物で、その作風はヴォーン=ウィリアムズとよく似たパストラル様式であり、モダニズムとは余り縁が無く、保守的である。20世紀前半のイギリスのパストラル様式の音楽は、イギリスのこの時代の理想主義の一つの表れであると見ることも出来る。それはフランス近代音楽に見られるような異国趣味や都会的センスに溢れた感覚の表出ではなく、田園地帯のヒューマンでノスタルジックな素朴な感情表現であり、フィンジー はそれを目指した作曲家の一人であったと言えるだろう。 


 こうした国民音楽的運動の一方で、20世紀前半のイギリス音楽においてもモダニストと呼ばれた作曲家達、フランク・ブリッジ Frank Bridge (1879-1941)、アーサー・ブリス Arthur Bliss (1891-1975)、ウィリアム・ウォルトン William Walton (1902-83) 、コンスタン・ランバート Constant Lambert (1905-51) らの活動があった。しかしそのモダニズムは急進的ではなく控えめである。「控えめである」ということがイギリスのモダニスト達に共通した傾向である。ブリッジの音楽は無調と調性の折衷である。またウィリアム・ウォルトンは1923年のISCMの演奏会で発表した弦楽四重奏曲で、わずか21才にして一躍国際的にその名前が知れ渡るようになり、アルバン・ベルクに「イギリスの無調音楽のリーダーである」と言わしめたほど大陸のモダニズムの手法をいち早く取り入れた作曲家であったが、ヒンデミットやストラヴィンスキーなどによって啓発された新古典主義的な作風へと次第に変化し、保守化してゆく。ヴィオラ協奏曲 Viola Concerto (1928-29) はまるでエルガーの時代の濃厚なロマン主義音楽へ逆戻りしてしまったかのようである。

 

 第二次世界大戦後のイギリス音楽はベンジャミン・ブリテン Benjamin Britten (1913-76) の最初のオペラ『ピーター・グライムズ』"Peter Grimes" (1945) で始まる。エルガーの登場と伴に始まった20世紀前半のイギリス音楽の復興は、国内においては大きな関心を呼び起こしたが、そのインパクトが国外へ広がっていくということは殆ど無かった。エルガー、ディーリアス、ホルスト、ウォルトンだけがインターナショナルなポジションを勝ち得たが、それは制限された範囲のものであった。第一次、第二次の両大戦間に国内で最も重要な活動を行ったヴォーン=ウィリアムズでさえ国際舞台では彼らよりも更に狭い範囲でしか受け入れられなかった。しかしブリテンは戦後初めて国外で広く認められるようになった作曲家であり、特にオペラの分野において優れた業績を残し、かつて国民の尊敬を一身に集めていたエルガーを凌ぐ程イギリス国内においては圧倒的な存在感のある作曲家となっている。作品研究に関する文献が他のイギリス人作曲家の存在が霞んでしまうくらいに群を抜いて数多く出版されているという事実は、研究者にとってもこの作曲家の技法が極めて興味深い内容を含んでいるということを物語っている。ブリテンは初期にはアルバン・ベルクの強い影響を受けていたが、その後イギリスの古い時代の音楽に関心を寄せるようになる。ヘンリー・パーセル Henry Purcell (1659-95) の音楽への関心は変奏技法とオペラのコンポジションの研究にあったと言われ、彼はしばしば「パーセルの後継者」と形容されている。ブリテンの音楽には急進的なアヴァンギャルドな試みや実験は認められない。それはショスタコーヴィチのように、書式は保守的であっても一切妥協のない極めて純化された精神性の高い音楽であると言える。


 ブリテンに続いて戦後注目される活動を行っていたのがマイケル・ティペット Michael Tippett (1905-98) である。主要な業績は管弦楽作品とオペラであるが、ワーグナーの如くオペラの台本を常に自分で書いていたという点がユニークである。活気のあるリズムと複雑な対位法のテクスチュアが目立つが、ティペットの音楽にはバロック時代の様式から黒人霊歌、ストラヴィンスキーやヒンデミットの影響など、実に様々な要素が混在している。


 戦前のヴォーン=ウィリアムズによって先導された民謡復興による国民音楽の活動はイギリス音楽に勢いをもたらしたが、一方ではノスタルジックな音楽表現にマンネリズムを生み出していた。これに対する反発としてドデカフォニスト達の活動はあったと考えられる。エリザベス・ラティエンス Elizabeth Lutyens (1906-83) は12音技法を取り入れた最初のイギリス人作曲家の一人であった。しかし多作家であったにも拘わらず、1950年代、60年代は顧みられることが殆どなかった作曲家である。ハンフリー・サール Humphrey Searl (1915-82) は王立音楽院 Royal College of Music でジョン・アイアランドに師事をしたが、後にウェーベルンに師事するためにウィーンへ渡り、新ウィーン楽派のスタイルを踏襲するようになる。彼はラティエンスと共に音列技法のシステマティックな方法を実践し、イギリスにドデカフォニーをもたらしてアヴァンギャルドな活動を推進させた人物である。そして彼らに続いて1930年代、40年代生まれの作曲家達が、新しい音楽創造の担い手として1950年代の終わりから1960年代にかけてイギリスの音楽シーンに登場してくる。この世代の作曲家達の音楽には戦前に主流を占めていたヴォーン=ウィリアムズに代表されるパストラル様式のノスタルジックなムードは一掃され、アヴァンギャルドな不協和音で満たされるようになる。そして技法的な拠り所を前述した新ウィーン楽派や メシアン、ブーレーズらの音列技法に求めたのであった。またブーレーズが1960年代の半ばからBBC交響楽団の指揮者となり、イギリスの現代音楽の活動を力強く後押ししていった事実は看過出来ない。1930年代生まれの作曲家の中でも注目されるのがロイヤル・マンチェスター・カレッジ Royal Manchester College の出身者達で、アレクサンダー・ゲール Alexander Goehr (b. 1932)、ハリソン・バートウィッスル Harrison Birtwistle (b. 1934)、そしてブリテン亡き後のイギリス作曲界をリードし、カリスマ的存在となっているピーター・マックスウェル・デイビス Peter Maxwell Davies (b. 1934) である。

 

(2002年執筆)

 

 筆者はラティエンス、サール、ゲールの作品を聴く機会を得ていない。これらの作曲家については文献を手掛かりに記した。

 

(注)ティンタジェル Tintagel について

 イギリス南西部の大西洋岸に位置する村の名前。アーサー王と円卓の騎士伝説に関係するティンタジェル城址がある。
   


 

イギリスのチェルトナムにあるホルストの生家

(2001年、筆者撮影)

 

生家は Holst Birthplace Museum として一般公開されている。
ロンドンのパディントン駅から電車で2時間40分。

ホルストに関する展示資料は少ない。
この博物館は19世紀の終わりから20世紀の初めにかけての当時の人々の暮らし振りを伝える言わば民俗博物館としても使われているようで、地階が女中部屋、台所、貯蔵庫、洗濯場、1階がグランド・ピアノがある音楽室、2階が居間と寝室、屋根裏が女中の寝室と子供部屋になっていて、それぞれ当時を偲ばせるディスプレイが施されている。
寝室はホルストが生まれた部屋ということで、当時の「お産」の状況を説明するパネルがある。
部屋はどれもさほど広くなく、慎ましいホルスト家の生活振りが伺える。
チェルトナムは人口8万数千。しっとりと落ち着いた雰囲気の町である。