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2023年 12月

「3人の会」の発言

 

 ネットの古本屋のサイトで『音楽芸術』(音楽之友社)の昭和292月号を見つけ、団伊玖磨(正しくは「團」)、芥川也寸志、黛敏郎の「3人の会」の記事が掲載されているとのことで、興味が湧いて取り寄せて読んだ。

 記事のタイトルは『人の会の発言』で、内容は団、芥川、黛と音楽之友社の記者の4名による座談会だった。「3人の会」が結成されたのは前年の昭和286月で、第1回「3人の会」の演奏会は昭和291月だから、記事の内容から、座談会は演奏会の少し前に行われたと想像される。発言の多くが団と芥川で、黛の発言は控えめ。その点が少々意外で、「3人の会」の活動は、団と芥川の二人がリードして始められたような印象を受けた。

 座談会の時点では3人はまだ20代(最年長の団が29歳かと思う)。団の舌鋒は鋭く「従来の(作曲)グループが社会というもの、民衆というものから浮上がって、つまらぬつき合いで結びついている」「研究発表的な手段のために会があるような感じがする。悪く言えばおさらい会」「もっと強い対社会的な意識をもって、こちらから積極的に働きかけていこうと痛感している」と述べていて、「3人の会」発足の意図や背景は、どうやらその辺りにあったようである(この3人がそれぞれ生涯にわたって音楽を通じた社会的活動を積極的に展開して行ったのは周知の通り)。

 団と芥川はこれからどういった作品を書くかについて、団は「一番やりたいことは、ヨーロッパの猿真似の域を脱した現代の日本の音楽というものを作ること」、芥川は「もっともっとヨーロッパに近付いて、完全に絶望を感じたい」と述べている。芥川が日本人作曲家としてヨーロッパと日本の根本的な音楽観の相異にトコトンまで悩み、そしてその帰結を見通して「絶望を感じたい」と表現していることにリアリティーがあるなと思った。

 黛が「全然他人の作品の発表会も主催しようという計画です」と発言していたが、「3人の会」が実際にそれを行ったかどうかは知らない。

 当時の作曲界の関心事であった十二音音楽について、団は「僕ははっきり否定論者」、芥川は「僕は中間。とってもとっても面白いと思うけれどもドデカフォニスト(十二音主義者)になろうとは思わない」、黛は「興味は持っている。ピエール・ブーレ(ブーレーズ)のやっていることなんかを見ると、音楽というよりも数学だ。パズルみたいなもの。インスピレーションが何もないとき、あれで書ける」と語っている。

 

 ところでこの冊子には私の恩師の石桁真礼生先生が『十二音音楽への希い』というタイトルの文章を寄稿しておられるが、表現が痛快で面白い。

 「なにか、『変わったことをしたい』のである。現代の作家のうちに、『変わったことをしたいとは、毛頭思わない』人があったら、お目にかかりたいのである。作品を創作すること自体が、この精神の現われでさえあるのだ。良い意味で考えてみたまえ。『変わったことが出来そうもない』と悟った人が、創作を断念するのである。」

 


2023年 10月

脳と音楽

 

 4年前に秋田県の高等学校の音楽の先生方の研究会で、「ラヴェルの音楽とその時代」というテーマで長時間の講演をさせて頂いたことがあった(3回の休憩を入れて4時間!)。その際、資料として関連事項を記した年表を作成して配布し、その中の「ラヴェルの生涯」の項目で、1932年(57歳)「交通事故に遭う」、1933年(58歳)「脳疾患による症状に悩まされるようになる(交通事故によるものかは不明)」と記した。ラヴェルは1937年に開頭手術を受け、その9日後に死亡する(62歳)。

 先日、晩年のラヴェルを悩ませた脳疾患について、岩田誠著『脳と音楽』で詳細に述べられていることを知った(同書第2章『ラヴェルの病い』、著者は執筆当時東京女子医科大学教授)。

 岩田氏は広範囲に渡って多数の文献(音楽関係の文献はもちろんのこと、ラヴェルの病状を観察した医師の論文に至るまで)を調査し、「外傷性の病気ではないことは、診察をした医師も手術をした医師も明らかにしている」と述べている。ラヴェルの病状の進行について岩田氏が作成した年表を見ると、最初の兆候らしきものは事故の6年前の1926年(51歳)に現れており、翌1927年(52歳)には最初の診察を受けていたことが分かる。岩田氏は結論として、ラヴェルは「“全般性痴呆を伴わない緩徐進行性失語症”に罹患していたと確信するに至った」とし、ラヴェルは「受けなくてもよかった手術を受けて死んだ」(同著p.168)と述べている。

 他にもこの書には、例えば「失語症患者において、言語能力がほとんど失われても、音楽能力はある程度保たれていることは、ずいぶん昔からすでに気付かれていた」「言葉を発することのできない患者が歌を歌える」「高度の失語症に罹患していたにもかかわらず、シェバリーン(旧ソ連の作曲家)は失語症発症以後も作曲を続けていった」など興味深いことが多く書かれている。私は特に「重症の失語症に罹患しながらも、職業的な音楽活動を続けることのできた音楽家が少なからず存在したということは、音楽能力というものが、言語を支えている脳の機構からある程度独立した脳の機能によって営まれているということを示していると思われる」とした記述に注目した。

 また「人並はずれた才能を持つ音楽家達が、並はずれて大きな下頭頂小葉(リンク先:Wikipedia)を持っていることに不思議はないように思われる」あるいは「バッハ、ハイドン、ベートーヴェン、リストといった、世界中の誰もがその名を知っている大作曲家たちの頭蓋骨が、いずれも側頭部が横に張り出した独特の形をしていたことを見てくると、このような頭の形状は、どうやら大作曲家に共通の特徴であると思えてくる」といった記述なども非常に興味深い。

 


2023年 5月

昭和世代の作曲家と映画音楽

 

昭和世代の日本人作曲家について優れた評論を数多く執筆した秋山邦晴氏は、日本の映画音楽の評論も書いていた。『キネマ旬報』に1971年から1978年にかけて連載したものが2021年に単行本化されていたのを知り、取り寄せて読んでいるが、興味深い記述が多い。「日本の映画音楽の発展・展開は、とりもなおさず日本の作曲界、演奏会の進展と重なりあっていた」「ぼくは日本の映画音楽を語ることは、そのまま日本の現代音楽史をみることであると考えている」と述べていて、私が何となく感じていたことをズバリ指摘していた。それを如実に体現していたのが武満徹だったのではないかと思う。映画音楽の作曲で実験したことを自分の作品に取り入れたり、自分の作品で用いた語法を映画音楽に応用したり、若い頃の黛敏郎も確かそうだった。映画『修善寺物語』の音楽の作曲のためにお経を調べて使ったことが『涅槃交響曲』の作曲につながったという秋山氏の指摘はとても面白い。武満は1964年制作の映画『暗殺』の音楽の作曲で尺八(横山勝也)を、また同年の映画『怪談』で尺八と琵琶(鶴田錦史)を用いて書き、1966年の作品『エクリプス』(尺八と琵琶の二重奏曲)の作曲を経て、1967年の代表作『ノヴェンバー・ステップス』へとつながってゆく。この一連の創作の流れは秋山氏の言説を裏づける好例だと思う。

 この本は作曲家別に構成されていて、武満や黛の他に佐藤勝、早坂文雄、芥川也寸志など映画音楽で名を馳せた人達が並んでいるが、秋田出身の作曲家・深井史郎も取り上げられていて注目した。深井は、戦前は「前衛的な手法で新鮮な映画音楽を書く作曲家」として見られていたそうで、秋山氏は「深井は昭和十年代の日本の作曲界のなかで、独自なモダニストぶりを発揮したユニークな才能の作曲家であった」「彼は管弦楽作家としては、抜群の感覚と技術をもった作家として、つねにわが国では注目される存在であった」と述べている。初期の代表作『パロディ的な四楽章』の第4楽章を秋田南高校の吹奏楽部がかなり前に吹奏楽コンクールで演奏して一時話題になったことはあったが、今では深井について語られることは、出身地の秋田では殆どなくなってしまっているように感じている。秋山氏の本を読んで、深井の実像をもう少し詳しく知りたいと思った。