Blog


2022年 10月

薩摩治郎八とジル=マルシェックス(1)

 

 私が薩摩治郎八(1901~1976)の名を初めて目にしたのは高校生の頃だったと記憶している。もう50年以上も前だ。当時購読していたFM放送の情報誌に生前の薩摩のインタビュー記事が載っていて、薩摩がモーリス・ラヴェルと親交があったことを語っていたのを覚えている。そしてその後、薩摩がアンリ・ジル=マルシェックス Henri Gil-Marchex(1894~1970)というフランス人ピアニストを日本に招聘して帝国ホテルで6回に渡るリサイタルを開催し、これが相当な反響を呼んで、日本の作曲家たちにも影響を与えたということを本で読んで知り、この人物に関心を持つようになった。以来、折に触れて薩摩に関する本や雑誌の記事等を読んだりしてきているが、薩摩については何年かおきくらいの周期で本が出たり、雑誌で取り上げられたりしているように思う。私が知る範囲では、2009年から2011年にかけては3年連続で異なる著者による評伝の単行本が出ていた。亡くなってから半世紀近くが経つが、薩摩を再評価する動きは、とにかく途絶えることがない。つまりそれくらい惹きつけられる魅力を持った人物だということだろう。

 薩摩の経歴をざっと記しておく。

 木綿で巨利を得た東京の商家の長男に生まれ、1920年(大正9年)に19歳でイギリスに渡り、翌年にはパリに移って、実家の財力を背景に華やかな生活を送った。藤田嗣治やラヴェル、舞踊家のイザドラ・ダンカン、ロシア・バレエ団の花形ダンサーだったタマラ・カルサヴィナら大勢の著名文化人と交流し、芸術家や文化活動に惜しみなく私財を投じて支援し、パリに日本人留学生の施設「日本館」を建設した。第二次世界大戦を挟んで30年間をパリで過ごしたが、薩摩が使った金額は、現在の貨幣価値にして200億円とも800億円とも言われている。1951年に帰国し、晩年は戦後に出会った夫人と徳島で質素に暮らした。

 現在、私の手元にある薩摩に関係する書籍は以下の6冊である。購入順ではなく出版年の順に記載する。

  1. 『せ・し・ぼん ― わが半生の夢 ―』薩摩治郎八著 山文社 昭和30年(※冒頭の画像)
  2. 『但馬太郎治伝』(獅子文六全集第十巻所収)獅子文六著 朝日新聞社 昭和44年
  3. 『薩摩治郎八と巴里の日本人画家たち』徳島県立近代美術館 1998年(平成10年)
  4. 『「バロン・サツマ」と呼ばれた男~薩摩治郎八とその時代~』村上紀史郎著 藤原書店 2009年(平成21年)
  5. 『薩摩治郎八 ― パリ日本館こそわがいのち ―』小林茂著 ミネルヴァ書房 2010年(平成22年)
  6. 『蕩尽王、パリをゆく 薩摩治郎八伝』鹿島茂著 新潮社 2011年(平成23年)

 上記の2は薩摩を「但馬」に、治郎八を「太郎治」に変えて書かれた小説である。この他にも雑誌『芸術新潮』1998年12月号(新潮社)の薩摩に関する特集記事や、瀬戸内晴美(瀬戸内寂聴)の薩摩を題材にした『ゆきてかえらぬ』などを読んだことがある。

 上記の1はネットを通じて古書を入手したものだが、まだ自分の手元に無かった時分に、国会図書館まで足を運んで読んだことがあった。同書に掲載の「わが半生の夢」は回想録で、次のような興味深い記述がある。

 「私はまたこの頃、巴里作曲界の秀星モーリス・ドラージュの家でモーリス・ラヴェル、フローラン・シュミット、ダリウス・ミローなど所謂巴里六人組を中心にした作曲家の仲間に入れてもらって彼等と度々会合する機会を持った。」

 また長唄三味線の四代目杵屋佐吉が1925年から26年にかけて文部省の委嘱で渡欧し、パリに来た時のことも書いている。

 「杵屋佐吉夫妻が巴里に来たのもその頃である。私に是非仏蘭西楽壇の巨匠連に一曲聞かせる機会をつくってくれとの話であるので早速ラヴェル、ドラージュ等と相談して、洋琴家ジルマルシェックスの家で佐吉夫妻歓迎宴を開くことにした。(中略)金屏風を立て廻し、赤毛布を敷いた上で、佐吉君がペンペンやつた。ラヴェルとドラージュも大喜びだった。」

 そしてジル=マルシェックスの日本公演についてはこのように記している。

 「仏政府の委嘱と巴里の友人たちの期待をあつめた本邦に於ける欧州近代音楽紹介事業は有名なラヴェル作曲演奏家のピアニスト、アンリ・ジルマルシェックス招致によって実現された。これまた理解ある父の財政的援助に俟(ま)つ所が多く、私が執筆出版した解説書は、当時にしては豪華版であり、帝国ホテル演芸場に於ける六回の演奏後、皇后陛下(大正)の御前演奏を仰せつかつたことは、主催者の私にも、仏蘭西政府にも光栄であった。」

 またラヴェルが藤田嗣治の絵を見て褒めたことも記している。

 「彼(藤田)の最大の傑作であろう後身の裸女の図を、マドレン広場のベルネームジョン画廊の名家展で見たが、その線の美しさと、音楽的旋律は、私と同行したモーリス・ラヴェルの観賞眼をくぎづけにしてしまつた。『こんなに海の感覚を出している画はないね。それでいて裸体の線だけなんだがね。』と観賞眼の高かつたラヴェルは感嘆した。」

 薩摩はこのように回想しているが、私の自宅にあるアービー・オレンシュタイン編の "A Ravel Reader ー Correspondence, Articles, Interviews" (出版:Dover)、そしてラヴェルと交流があった人々のラヴェルの思い出を綴ったロジャー・ニコルズ編の "Ravel Remembered "(出版:faber and faber)に薩摩とラヴェルの交流に関する記述が無いか探してみたが、見当たらなかった。ジョルダン=モランジュの『ラヴェルと私たち』(音楽之友社)やジャンケレヴィッチの『ラヴェル』(白水社)、また翻訳された何冊かのラヴェルの評伝を読んだことがあるが、いずれにも薩摩についての記述は無かったと記憶している。薩摩の受け取り方と“あちら側”の関心の度合いには、どうも温度差があるようだ。音楽学の笠羽映子氏は論文『日本とラヴェル~西洋音楽の受容をめぐる一考察~』で「日本側の資料から、薩摩治郎八とラヴェルの交友関係も明らかになる訳だが、(中略)ジル=マルシェックス、薩摩らを介しての日本との結びつきを過大に考えない方がよいというのが目下筆者の考えるところである」と述べている(早稲田大学比較文学年誌 第24号 p.144)。

 ラヴェルが1921年以降に住んでいたモンフォール・ラモリーの家には浮世絵が沢山飾ってあったし、杵屋佐吉がパリを訪れた1925年頃はラヴェルは歌劇『子供と魔法』を作曲していて、「ハラキリ」とか「早川雪舟」という言葉が出てきたりしていて、日本に興味があったことは伺えるが、この頃のラヴェルの作曲上の関心はジャズに向かっていたことは確かで、ジョルダン=モランジュも「ラヴェルはジャズが出現して以来、すっかり魅了されていた」と語っている(前掲『ラヴェルと私たち』 p.230)。

 

 (この話題は不定期になりますが、続けます。)

 


2022年 9月

武満徹《ノヴェンバー・ステップス》の初演と初録音を巡る話

 

 作曲家・武満徹(1930~1996)の夫人の浅香さんが、夫との日々の暮らしを編集者のインタビューに答える形で書いた本がある(一つ目の画像)。出版は2006年だが、私はこの本のことを知らず、最近、ネットで見かけて古本を取り寄せて読んだ。

 私が興味を持った話の一つが、1967年の《ノヴェンバー・ステップス》の初演と初録音を巡る話だった。作曲を委嘱してきたニューヨーク・フィルでいきなりやるのは難しいとのことで(誰がそう判断したのかは書いていない。指揮者の小澤征爾だろうか?)、小澤征爾が当時音楽監督をしていたトロント・シンフォニーで何回か練習してからニューヨークに臨んだ(!)とあった。これには驚いた。


 この記述を見て、50年以上前のことになるが、小澤征爾の指揮、トロント・シンフォニーの演奏で《ノヴェンバー・ステップス》とメシアンの《トゥランガリラ交響曲》がカップリングされたLPレコードを、私が高校二年か三年の頃に購入したことを思い出した(二つ目の画像)。レコードの出版年を見ると1968年になっている。つまり《ノヴェンバー・ステップス》初演の翌年である。浅香さんによれば、ニューヨーク・フィルでの初演が終わってからトロントに戻って録音したとのことだった。武満一家はトロント滞在中は小澤征爾の家に世話になっていたそうだ。《ノヴェンバー・ステップス》の初録音がニューヨーク・フィルではなく、何故トロント・シンフォニーなのか、レコードを購入当時、私は疑問に思ったりしたものだったが、どうやら前述の経緯と関係がありそうである。

 なお、このレコードには《ノヴェンバー・ステップス》初演のコンサートのプログラムが掲載されている。以下に記す。

 

ベートーヴェン:交響曲第2番

武満徹:《ノヴェンバー・ステップス》

ヒンデミット:交響曲《画家マチス》

 


2022年 8月

小松耕輔の肉声(続き)

 

 先月に引き続き、小松耕輔の肉声が録音されたテープを元読売新聞記者の小林義人氏が文字起こししたものを掲載する。今月掲載分については、小林氏によれば、最初の19分間は小松耕輔がインタビューに答える内容で、19分から52分までは内容から判断して文字起こしを省略。52分以降は耕輔が一人で語っており、恐らく子供か一般の人を相手にした講話と思われるが、話が途中で飛んでおり、録音に失敗した可能性があるとのこと。丸括弧内の文言は小林氏による補足であるが、一カ所私が付けたところがあり、そこには私の名を付した。

 

 ◇     ◇     ◇

 

【芸術と音楽】

<小松耕輔>

 音楽というものは私、ほかの図画とかと同じもの、という形で見てる。特に、音楽が非常に優れて、絵とかほかの芸術より音楽がなかったら困るなどと、特に音楽を見ているわけではない。つまり、芸術の一部分として、みんな平等に見ているんだね。そう意味では、特に音楽が特別に芸術的というわけではないんだ。

 

<聞き手>

 教育全般の話として音楽教育とは?

 

<小松耕輔>

 全人的教育という意味ではね、戦後の方が非常にバランスが取れている。大事に考えているね。戦前の教育は、国によって違う。ドイツなどは「音楽は人間に必ず要る」という風に尊重しているわけだね。芸術教育の一番の教育と考えている。

 芸術の中には、例えば絵もあるし、詩もあるし、いろいろあるが、上位するものは音楽だと考えている。ドイツより音楽を尊重する国はそんなにない。どこも「第一に音楽でなければ」とドイツほどには考えていない。

 戦前から戦後を考えてみると、全人的教育は高まっている。

 もともと、日本の学校教育の中には、他のヨーロッパやアメリカのように、音楽を尊重した歴史がない。孔子は学(「楽」では?:四反田)を礼儀として教えたが、音楽を尊ぶなどとは教えないもの。

 

【音楽教育はアメリカから】

<聞き手>

 音楽教育の発祥当時は唱歌と言ったのですね? 唱歌教育がアメリカから来たというのは本当ですか?

 

<小松耕輔>

 初めはアメリから日本に入った。万事そうで、みんなアメリカを通してだ。当時はアメリカの教育、教科書をそのまま持って来て教えた。英語だけではない。例えば地理にしても、直訳した原書をそのまま学生に教えた。英語は向こうのナショナルリーダーをそのまま教えた。医学でも何でも、そのまま持ち込んで教えた。

 

<聞き手>

 何故、アメリカなんですか?

 

<小松耕輔>

 何故、アメリカの教育を持ち込んだのかは、私にも分からないところがある。ただ、こういうことは言える。

 アメリカは元々、ヨーロッパの植民地でしょう? だから、国が盛んになって教育に力をいれなきゃならんと考えた時の手本は、みんなヨーロッパだった。ヨーロッパから持ち込んだ。

 その状態が当時の日本。(事情が似ていたから)ヨーロッパよりアメリカの方がよく分かる。その型をそのまま(踏襲して)日本に持ち込んで教えた。アメリカなるものが一番、手本になった。

 しかし、第2の段階では、アメリカをよして、ドイツを土台にしてヨーロッパを(取り入れた)。最初はアメリカが手っ取り早かったんだが、10年たち、20年たつと、どうもアメリカだけじゃいかん。アメリカが手本にしたヨーロッパに学ぶべきとなった。

ヨーロッパ的教育となれば、当時、一番の勢力だったのがドイツ。かくしてアメリカ文化は光沢を失った。アメリカ式の教育が光を失って。アメリカは単にドルの国になった。教育の手本はヨーロッパ。軍隊なら陸軍はフランス。

 教育だけを考えたら、アメリカを持って来るのがいい。当時の留学生はもんなアメリカに行ったものだ。教育的仕事はみんなアメリカに行って、アメリカの師範学校や何々大学とかへ行った。当時の学生や教育家はみんなそうだった。

 

四七抜き音階】

<聞き手>

 音楽教育で言うと、半音が日本人にはまずかった?

 

<小松耕輔>

 日本の音階は「五声音階」。五つしかなかった。

当時は「ドレミ」でなかった。「ヒフミヨイムナ」と教えたものだ。♪ヒフミヨイムナヒ、ヒナムイヨミフヒ(ドレミファの節を付けて口ずさむ)。数字だね。「君が代」だと、「♪フヒフミイミフ ミイムイ」となる。

 当初の「四七(ヨナ)抜き音階」(主音のドから4つ目のファと7つ目のシがない)は、元はと言えば雅楽から来た。「呂旋法」と言う。「四七抜き」だが、初めから日本にあったものではない。シナの雅楽から日本に入って来て五音階になった。つまり、「四七抜き」だ。当時はみんな、半音がない。

 

<聞き手>

 ばんがくとはどういうものですか?

 

<小松耕輔>

 ほかはどうか知りませんが、ここの番楽は非常に面白い。雅楽がなまってきて、だんだん民間に伝わった。そして、神社に奉納する音楽になった。お祭りに出した。シナから来た雅楽がなまって番楽になった。

雅楽から民謡か何かとして入って来たのが「黒田節」。あれは雅楽だね。「♪さぁけは~」となって来た。元々は雅楽。

一方、舞い、舞楽の方はなまって形が崩れてしまった。番楽がそうだ。

 

<聞き手>

 舞楽のひとつが番楽ですか?

 

<小松耕輔>

 「番楽」という文字は、どういう意味か私は分からないんだが、あの当時ね、日本の一般の民謡にも、ああいうものがたくさん、入って来て。シナとか、朝鮮とかから入って来たという意味で、「蛮(?)楽」と言ったのではないか? 「蛮人の音楽」という意味でね。

 

  ◇     ◇     ◇

 

【明清楽の思い出】

 それでは今日はいろいろ、音楽のことについてお話をしましょう。

 私の生まれたのは明治171214日であります。生まれた日は義士の討ち入りの日に当たるわけであります。

 玉米の小学校に入った。その学校は3階建ての小学校で、当時としては珍しかった。小学校で3階なんてなかったから。

 そこで教育を受けた。しかし、音楽の教育は、あの当時はどこでもそうだが、非常に簡単なものであった。学校の中にはオルガンもなかった時代なんですね。今日の音楽教育という点から見ると、非常に進歩していなかった。

 

 

 当時、学校以外の音楽はどうであったかというと、家庭においては明清みんしんがくが非常に流行した。シナの音楽ですね。みんしん。それらはちょくがく(?)系統の音楽です。日本中に盛んに流行した。

 楽器は月琴げっきん。今は知る人もいないでしょう。それと明笛みんてき。普通の笛だが、上のところに穴がもうひとつ。その上に竹紙ちくし、竹の中にある薄い紙です。それを穴に貼って吹くんです。そういう楽器だった。非常に面白い音を出すんです。

 月琴は丸い木製の胴が付いていて、4本の弦が張ってある。柱(じ)があって、柱という字ですね。音階を出すためのがあって、横に付けてあって、そこを押すと音が出る。三味線はすぐに柱でしょう、つまりさおがあってすぐに音が出る。

 月琴は横にコマが出来て、それで演奏する。シナの音楽の譜を使った。「ザン、ツェイ、コン(?)」などと、シナの文字を使った。当時の明楽の譜です。これが家庭に流行した。

 私の母はあれが好きで、月琴をよくやっていましたよ。それを私は聞いていたもんだから、明笛を盛んにやった。家庭はそんな具合だった。

 

 【紙腔琴と汽笛】

それからもうひとつ、学校音楽のほかに「紙腔しこうきん」というものがあった。

 (注・なぜか話が飛びます)

私の部落から行くには、横手を通って、そこからずーっと長い事、車で、人力で黒沢尻に行ったんです。今は黒沢尻という駅は変わっていますよ。何とかと言いました。そういう駅に行った。朝早く(家を)出ると、夕方、黒沢尻に着くんですね。そうしてひと晩泊まって、それから汽車に乗る。あくる日朝早くです。汽車ってものを見たことはない。しばらく待っていると、遠くの方から雪の中を、2月でしたからね、雪の中を、線路の向こうから、真っ黒いものが走って来るんだ。それがつまり、蒸気機関車。機関車に引っ張られて列車が来るわけですね。

 (汽笛は)風琴の仕掛けですよ。つまりオルガンだ。オルガンの仕掛けを手でぐるぐる回すと、下から風が出て来る。箱から風が出て来ます。弁が仕掛けてある。リードです。リードオルガンの仕掛けになる。リードに風が当たって音が出る。オルガンの仕掛けを手で回して風を送って、弁、つまりリードによって音が出る。こういう仕掛けなんです。

 丸いというか、長い、相当に硬い紙がありましてね。譜の穴が付いている。くるくる回すうちに、長い紙もくるくる回る。同時に下から風が入って来る。リードに風が当たって紙の穴から音が出る。これがつまり、紙腔琴。民間で流行した。今ではありませんが、そういう楽器だったんだ。

 それには唱歌とか、いろんな俗楽ですね、みんな入っている。これが大変、面白かったんだ。

 当時、その楽器を持っているのは老方の小松亮太郎。県会議員の人で、文化人でもあった。その子供にもり太郎さんという人がいた。(この地方で)紙腔琴を初めて持っていた。うらやましくて、しょっちゅう、弾かせてもらっていた。

 

 


2022年 7月

小松耕輔の肉声

 

 日本におけるクラシック音楽の普及に貢献した小松耕輔(1884~1966)の肉声が録音されたテープが2020年に発見された。この度、元読売新聞記者の小林義人氏がそのテープ起こし(文字起こし)をされた。小林氏によれば録音は1960年、耕輔75歳の時と推察されるとのこと。小林氏による文字起こしの原稿をそのままコピー&ペーストしたものを今月と来月の2回に分けて掲載する。丸括弧内の文言は小林氏による補足。

 

  ◇     ◇     ◇

 

【子供時代の音楽環境】 

新楽器が入ってきた。私も盛んに聞いたりしておった。私は〇〇音楽(新音楽か?)が好きであった。どうしても、これは音楽を研究しなきゃならんという考えを持って、両親の許可を得まして、いよいよ音楽の研究に行くことになった。

 ところが、とうまいの今の学校ですね。尋常小学校でしたからね。(地元には)それしか無かったものですから、矢島の高等小学校へ行った。そこで初めて、本当の音楽教育と言うものを受けたわけです。

 矢島の学校には立派なオルガンがありましてね。音楽の時間にはしょっちゅう、そこを使えば勉強できる。ことに、今ある専科の先生ではないけれども、非常に音楽に熱心な先生がおりまして、しょっちゅう、オルガンを弾いてくれた。そんな関係で、そこを卒業した。

 それから、「これはどうしても東京へ行かんならんし、音楽学校に行くしかほかに方法はない。どうしても官立の音楽学校へ行ってやろう」という考えを持った。

 そうして明治34年ですよ。ちょうど2月。当時は玉米の舘合たてあいというあざ。舘合から汽車といっても、今の奥羽線はまだない。ほかのバスとか、そういうものも一切、ないんだ。唯一の交通機関というものは人力じんりきですね、人力。その人力もですね、当時は鉄道は東北本線。それしかない。

 月編に空という字があるでしょう。紙腔しこうきんという名前の新楽器があって、東京の十字屋という楽器店が売り出したんだ。

 これはちょっと説明しないと分からん。横が1寸5尺、縦が1尺ほどの箱だ。中を見ると楽譜を書いた木がある。下の方にハンドルががあって、手で回す機械。右手でハンドルをぐるぐる回すと、ひとりでに下から風が出て来る。

 駅にそれ(蒸気機関車)は止まった。同時に大きな声を出して「ワン」。汽笛ですよ、それがね。びっくりして、「汽車というのは大したもんだ」と思って驚いた。(汽笛と紙腔琴の仕組みが似ているという趣旨か?)

 汽車に乗って、その晩に上野に着くわけですね。そして初めて、東京の土を踏んだわけだ。

 

 【東京音楽学校の思い出

それから早速、音楽学校の入学試験の準備を始めた。当時は神田に予備校みたいなのがある。いろんな学校のね。英語とか漢読、歴史、数学。相当難しい程度の準備をしなければならん。

当時の東京音楽学校は、一番下に「選科」がある。選択の選。2年くらい、普通やる。その上に「予科」。予めという字だね。これが1年。そのほかに、3年の学科「本科」。それで卒業する。

まずは選科に入って予科の準備を始める。幸いにパスした。

よほど前から目が悪かったものですからね。学校の体格試験の時でも、非常に困る。眼の視力試験というものがある。視力が少し、悪かったもんだから。視力表というのがあるでしょう。あれをみんな覚えたんだ。三角や四角がある。(形を)みんな覚えた。

先生が向こうで「どうだ、これが見えるか?」

「はい、見えます」

「どっちの方を向いているか」と先生が聞くんだ。「一番上の右の方だよ」

「それは見えとります」

「これはどうだ?」と先生が聞く。下の小さいやつ。

「よく見えます」

それで「はいパス」と言うんだ。とうとう、パスしちゃった。

そういうわけでね。大変、辛かったんだ。

 

学習院へ

それから、どんどん勉強やって。そして明治39年に卒業したんだ。当時は6月が卒業の時期であって、今とちょっと違います。今はたいてい、4月に学期が始まって、3月でおしまい。ところが、当時は6月で学校が済んで、それから長いお休みがあって、9月から始め、卒業は6月。

それをパスして、今度は研究科。これは2年あるんだ。3年やることも出来た。それに入った。

ちょうどその時に、学習院の方から話があって、「先生が要るから来たらどうか?」。そこで私は先生になることになった。

毎日、学校へ通勤した。その当時の院長が、乃木大将であった。1年たって次の新学期に今の天皇陛下が学習院にご入学になった。私が音楽を担当することになって、ご卒業までお世話出来た。非常に名誉なことでした。

 

 欧州留学

そのうち、今度は外国留学ということになって、外国へ行ったんです。大正9年の9月です。

飛行機なんてない時代。船でインド洋から地中海を経てマルセイユへ。ひと月半かかった。今なら飛行機で30時間ほどですか、パリまで。当時はマルセイユから汽車でパリへ行って、そこでようやく落ち着いた。

幸いに国立の音楽学校で聴講することになった。作曲と作曲理論を勉強した。

合間にイタリーとか、英国、ドイツ、それから方々の国へ行って、見学したり、調査したり。日本から出る時に、いろいろな役目を持たされた。学校で研究、勉強するだけでなく、実際の音楽の社会的状態を調査して来いということで。

学習院から(の依頼)は貴族音楽(の調査)が主でした。内務省からは「社会音楽の研究をやって来い」と。みんな嘱託ということで任命された。文部省からは「一般教育音楽の調査、研究を」との依頼を受けた。これも嘱託ですね。

だから、学校以外でのいろんな調査が必要になってきた。学校に少しでも休みがあると、それを利用しては方々の国へ行って、その状態を研究してきた。パリの音楽学校におって勉強するほかに、社会的ないろんなこと、簡単に言うと、音楽全般のことをね、調査しなきゃならんという状態であった。そうして、(足掛け)4年、調査をして勉強してきた。

 

【アメリカモデル】

その帰りにアメリカへ行った。滞在は短かったが、大体の都、ニューヨーク、ボストンなどに行って調査した。これがまた、ヨーロッパとは違った、ひとつのやり方をやっておった、米国はね。

一般の社会音楽ということでは、非常に得るところがあった。一体、アメリカという国はみんな新しい国でしょう。いわば、ヨーロッパの植民地ですから…。新しい時代の国だから、みんなヨーロッパのものを吸収してきて、いろいろなものをやったわけでしょう。そして、本当のアメリカの教育というものを盛んにしたんだ。

それを見ると、音楽だけでも参考になることが多い。日本に持って行くには、社会的音楽の程度では、アメリカのいろんなやり方は必要だと感じたんですね。その点では大変、参考になりました。

私はその前に、「日本の音楽教育というものは、これはみんなアメリカから来たものなんだ」ということを学んでいた。なぜかというと、いわゆるヨーロッパのやり方をまず、アメリカで研究して、いろんなヨーロッパの音楽をアメリカから持って来てやったもんですからね。それがつまり、明治5年の教育改革ということに。音楽の方も研究していかねばならないということになって、日本からアメリカへ行ったのが、伊沢修二という先生。この人が、日本における音楽教育の元祖なんだ。

この人が、アメリカに行って音楽を習い、と同時に、音楽教育というものの研究をやったわけだ。日本に帰って来て、音楽教育の必要性を当時の人たちに話をした。文部省に意見書を出した。「日本でも音楽教育を盛んにやらなければだめだ。日本は非常に遅れている」と。文部省に建白書を出した。

これが通って、音楽取調所が文部省の中に出来た。それによって出来たのが、今の東京音楽学校なんです。従って、東京音楽学校というものは一番最初、アメリカ的音楽のやり方を伊沢修二先生が持って来てやったものです。

そういう意味で、アメリカ音楽と日本の音楽教育は、非常に密接な関係を持った。そういうことをちゃんと知っておりましたから、(アメリカでは)よほど、いろんなものを見て来なければと思って帰って来た。

 

【社会音楽の底上げを】

東京に帰っていろんな人に話をし、文部省にも具申した。一番考えたのは、社会音楽をまず盛んにしなければだめだということ。いくら学校教育をやったって知れたものなんだ、人間の数とというものは。全部に行き渡るなんてない。学校の教育だけではまだダメだ。まず、社会的音楽を盛んにしなければならん。

国民全体が音楽というものに対しての理解を高めることが大事。と同時に、今度は音楽というものを実際に感じることが出来ること。理屈じゃないんだ、音楽というものは。

まず第一に、音楽そのものを理解すること。それから、音楽を好きになること。「音楽というものはなるほど、いいもんだ」ということが分かって来なければ、誰も本当の音楽というものを知ることは出来ない。ヨーロッパ全体、アメリカ全体で社会的音楽が非常に盛んになっている。「日本でも」と考えた。

日本の富士山は日本一の名山であり、一番高い山である。だけど、名山というものはどういう位置にあるのか。考えてみるとあの名山を成しているのは、あのすそ野です。非常に広大なすそ野があるでしょう? それがだんだん、高まって来て、最後に頂点に達するわけです。

ああいう名山が出来るには、非常に長い、広いすそ野が必要だ。音楽で言えば、そのすそ野こそが、一般の社会音楽なんだ。聴衆も必要、教育も必要である。すそ野の上に高くなっていくのが、つまりサミットだ。富士の頂上ですね。そこに行って、初めて作曲家も出るし、演奏家も出る。初めて音楽国というものが出来上がる。こう考えたもんだから、社会音楽というものを盛んにやった。

 

コンクール

それには2つの方法がある。海外で見て気が付いた。

ひとつは声楽です。声楽というのは、声の音楽。これを盛んにすることが合唱になる。合唱、コーラスですね。もうひとつは器楽でやる演奏。これが吹奏楽。ラッパのようなものや太鼓、それから笛。一緒に合奏するのが吹奏楽。この2つが盛んにならないと、音楽の盛んな国にはなり得ない。

文部省にも具申したんですけど、これがなかなか実行できなかった。

これをやるのには方法がある。コンクールだ。今ではみんな知っているが、その当時はコンクールなんて文字は、誰も知らなかった。合唱でも吹奏楽でも、「コンクールの形式でやって行かなければだめだ」ということを言ったんです。盛んに演説したり、文章を書いたり、新聞にも出したり、盛んに言ったんです。しかしながら、肝心の文部省がダメなんだ。孤軍奮闘でしたね。

 

そのうち、新聞に書くと、「コンクリートという会が出来るそうだ」と書いているんだ。コンクールの誤りなんです。みんな知らないんだから。大きな新聞でも「コンクリート」と書いてある。ばかな話だが、そういう時代でしたよ。

 

一般にも分かって来て、合唱の方は第1回が出来た。ずいぶん長い事かかったが、今のコンクール形式でやった合唱の最初の会だ。昭和2年です。初めて合唱の会が出来た。「コンクール」じゃ、誰も分からないものだから、「競演」という名前にしたんだ。競争の競、演は演奏の演。これがつまり、西洋の「コンクール」の翻訳なんだ。それを使った。「合唱競演会」という名前を付けた

1回の日本におけるコンクール形式の合唱の会。明治神宮の外苑にある日本青年館。あそこでやった。続けて今日まで来ている。今日では幸いにして全国的運動になった。日本合唱連盟というものになった。立派な効果を生んできた。全国的に日本の合唱界をリードしておる。今は非常に進歩してきた。

 

もうひとつは吹奏楽。これも盛んになって、吹奏楽の連盟が出来ている。堀内敬三君がその方の仕事をやってくれている。これも非常に盛んになったもんだ。朝日新聞が後援になって、全国的に盛んになっている。

こうして、社会音楽というものが、一般の民衆に親しくなった。社会音楽が盛んになれば、技術、作曲の側も年々、盛んになって来る。作曲も一般の人が出てきておる。演奏会も、管弦楽団が相当の数、出て来た。2、3のものは、ヨーロッパの楽団にも、一流のものとは言えないにしても、肩を並べるまでに成長している。立派な管弦楽団が出来ています。3、あるいは4くらいの管弦楽団は、実に立派なものです。合唱の方は、今言う通り、合唱網が出来て、盛んにやっている。

 

【オペラ運動】

そのほかに私がやってきた仕事では、作曲の方では、オペラの運動ですね。日本人作曲のオペラは、私が一番、古いんでしょう。私が卒業したのが明治39年。その年に「羽衣」というオペラを作曲し、公演して発表した。第2回は明治40年。オペラ「霊鐘」を書いた。

当時はオペラにお金をだしてくれる人がいない。長く続けようと思ったが、出来なかった。しかし、そのあと、山田耕筰君なんかが出て来て、盛んにオペラ運動をやってくれた。今日では立派な作曲家が出て公演している。藤原義江君などが、オペラの研究をやって、だんだん進んで来ている。国立の劇場も出来た。

いま振り返ると、我々が学生の時代と今日では、非常な進歩があります。しかし、何といっても、先進国のヨーロッパやアメリカには追従出来ていませんよ。まだまだです。

教育音楽にしても、非常によく進歩している。我々の学生時代と非常な差があります。

 

そういう意味で、私は非常な希望を持って今日、毎日、毎日、楽しく暮らすことが出来る。少しでもまだ、音楽に貢献するように、骨を折っております。もう70、今年は6になります(76歳)。幸いにもまだ元気ですから、もう少し、仕事が出来ると思っております。今日はそのくらいで勘弁願います。