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2022年 6月

標準語の成立と日本歌曲

 

 團伊玖磨さん(1924~2001)はオペラ『夕鶴』の作曲でテキストとした木下順二の原作を殆ど変えず、主役の<つう>だけを標準語に、あとの農民は田舎言葉(木下流の方言)の抑揚としたことから、師の山田耕筰と激しい議論になったとエッセイや対談などで述べておられる。團さんによれば、山田は「日本語の作曲は日本語のイントネーションに従って旋律の動きを作る可きである。(中略)その日本語のイントネーションとは標準語の抑揚に限る」と信じていた(『團伊玖磨自伝~青空の音を聞いた~』日本経済新聞社 p.67)。この山田の理念は山田以後、一つの指針として捉えられるようになったと私は理解しているが、しかし実際には標準語のテキストの抑揚については、作曲家それぞれが創作上の理由からケースバイケースで柔軟に対応して作曲しているのが一般的ではないかと思う。例えば同じメロディーを繰り返して歌う曲の歌詞が1番と2番ではアクセントが異なる言葉が使われているというのは珍しくない。

 山田が「限定すべし」と拘った標準語は、そもそもどのような経緯を辿って成立したのだろうか?真田信治著『標準語の成立事情』(PHP文庫、画像)から要点を拾ってみた。

  1. 江戸時代後期になると上層階級の江戸語は、全国の教養層に通じる共通語としての地位を占め始めるようになっていた。
  2. 1869年の東京遷都で東京が首府として政治、経済、文化の中心となり、明治政府が中央集権国家として、政治的、社会的に全国的な統一を図ろうとする過程で、言葉の統一・標準化を求めるようになった。
  3. 言葉の統一に関しては言と文、即ち話し言葉と書き言葉の二つの文体に分かれていた問題があり、明治20年代には文壇で言文一致運動が本格化した。言文一致体の文章は当時の東京語に基づいたものであり、その一般化は読み書きの面で東京語の全国への普及を促進させた。
  4. 明治35年(1902年)に文部省に国語調査委員会が設置され、「文章は言文一致体を採用すること」「方言を調査して標準語を選定すること」などを方針とした。この頃には既に“東京の中流社会の教養層の言語”を基調として、標準語を立てるというところに収斂(しゅうれん)しつつあった

 そして日本歌曲のテキスト、つまり詩は次のような変遷を辿った。

 明治15年(1882年)に『新体詩抄』が刊行されて、それまでの漢詩、和歌、俳句など旧体の詩とは異なる詩の形式が生まれ、七五調が採用された。新体詩(近代詩)は島崎藤村、土井晩翠によって完成され、明治34年(1901年)に作曲された瀧廉太郎の『荒城の月』は、西洋音楽のスタイルで書かれた日本歌曲の先駆けとなり、土井晩翠によるテキストは七五調の新体詩だった。その後、詩は、より自由な形式を求めて七五調を撤廃し、文語定型詩から文語自由詩へ、そして口語自由詩(現代詩)へと転換していく。

 標準語の成立、文壇における言文一致運動、新体詩の登場 ──「日本歌曲」という分野が誕生した背景には明治期のこうした動きがあった。

 


2022年 5月

東京音楽学校の明治期のカリキュラム(4)

明治42年から明治45年まで

 

 最後に第4期について述べる。

 明治42年には規則が改正されて修業年限は予科が2年、本科は学年制が廃止されて3年以上5年以内とされた。また既に述べたように、本科の楽歌部と研究科の作歌が廃止された。カリキュラムも改定されており、明治42年・43年の一覧を見ると次のようになっている。科目名のみを記す。

 

<予科>

修身、唱歌、器楽(ピアノ、オルガンまたはヴァイオリン)、音楽通論、国語、外国語(英語またはドイツ語)、体操

 

<本科>

声楽部

修身、唱歌(独唱、合唱)、ピアノ、和声論、楽式初歩、音楽史、国語、外国語(英語またはドイツ語)、体操

 〔器楽部

修身、器楽(ピアノ、オルガン、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバス、フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴット、ホルン、トロンボーン又はトランペット)、合唱、器楽合奏(室内及び管弦楽)、和声論、楽式初歩、音楽史、国語、外国語(英語またはドイツ語)、体操

 

 器楽部は「ピアノ・オルガン」と「その他の楽器」の区分けがカリキュラム上では無くなっている。改定前と比べて目立つのが「練習」の時間が<若干時>となっていて、大きく減らされていることだ。「練習」が授業時間外の生徒の自主的な学修だったとすれば、その実質化と成績評価が難しかったのかも知れないし、そこに比重を置いたことへの反省があったのかも知れない。毎週の授業時間数は22時間から25時間で、大きく変わっていない。なお女生徒のみに課していた『方舞』は無くなっている。

 

  <研究科>

 規則改正により、声楽部、器楽部、作曲部に分けられた。修業年限は作曲部が3年以内、その他は2年以内とされ、授業科目の学年配当と毎週の教授時数はその都度定めると記されている。 

声楽部

唱歌(独唱、合唱)、ピアノ、外国語(英語、ドイツ語又はイタリア語)、内外文学、美学

器楽部

器楽(ピアノ、オルガン、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバス、フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴット、ホルン、トロンボーン又はトランペット)、器楽合奏(室内及び管弦楽)、外国語(英語またはドイツ語)、美学、音響論

作曲部

音楽理論、ピアノまたは合唱、外国語(英語またはドイツ語)、内外文学、美学、音響論

 

 以上のように、改定後はカリキュラムから『聴音』が消え、声楽部と器楽部のカリキュラムから『作曲』が除かれている。しかし『指揮法』を無くしたのは何故だろう?

 入試についてであるが、明治42年・43年の一覧では予科の入試科目は次のように変更されている。

  1. 国語
  2. 日本歴史
  3. 日本地理
  4. 算術
  5. 英語
  6. 普通楽譜(大要)
  7. 唱歌

 音楽の試験科目に『普通楽譜(大要)』が新たに加えられているが、どのような内容の試験だったのかは分からない。楽典だろうか?

 本科については「本科に入学を許可すべき者は予科卒業の者もしくは試験によりこれと同等以上の学力を有すと認めたる者とす」に変更(太字の文言が加筆)されているが、具体的な試験科目等の記載は一覧には無い。また研究科については「研究科に入学を許可すべき者は本科卒業生中、学芸優等にしてなお将来において進歩すべき見込みあるものに限る」と文末の文言の若干の変更に止まっている。

 

 さて、明治期の東京音楽学校で行われていた教育について、私がこれまで持っていたイメージはかなり漠然としたものだった。第2期の瀧廉太郎と第3期の小松耕輔、山田耕筰、信時潔らの在学中のカリキュラムに違いがあったことは知らなかった。しかしこうして20年余りにわたるカリキュラムを眺めてみて、4つの時期の枠組みがそれぞれ具体的にはどの様なものであったのかを多少は理解することが出来た。東京音楽学校が明治32年4月に師範学校の附属から再独立したのを機に、西洋音楽の受容と普及活動のセンターとしての機能を一気に高めようとしていたことも、第3期の教育組織とカリキュラムの改革から伝わってくるように思えた。また一覧に掲載された教員や生徒の名簿に著名人の名前を見つけたりすると、ちょっとした発見をしたかのように感じられて、これがなかなか面白かった。言うまでも無いが、教育カリキュラムには時代が反映される。大正期、そして戦前の昭和期の東京音楽学校のカリキュラムがどのような変遷を辿って行ったのか、興味は尽きないが、それはまた別の機会に見てみたい。

 

 (この話題はこれで終わります。)

 


2022年 4月

東京音楽学校の明治期のカリキュラム(3)

明治33年から明治41年まで

 

 続いて第3期について述べる。

 東京音楽学校は高等師範学校の附属から再独立した明治33年の9月に学校規則を大幅に改正し、本科を「声楽部」「器楽部」「楽歌部」に分けて音楽家養成のみとし、音楽教員養成には師範科を設けて甲乙の2種とした。また修業年限が2年の研究科を設置し、カリキュラムを整備した。新カリキュラムは明治34年・35年の一覧(画像)から反映されている。

 この一覧を見ると常勤教員は校長を含めて27名(うち外国人は3名)、兼任教員が2名、授業嘱託が19名の計48名で、前述の附属学校だった頃と比べると教員数は倍増している。

 そして教育組織の改編に伴い、カリキュラムも以下のように大幅に改定された。記載の時間は各授業の毎週の時間数である。「練習」とあるが、その内容は一覧では分からない。毎週の時間数は予科、本科を問わず、授業時間数の合計と「練習」の時間数の合計を合算して34時間となるように設定されている。

予科

  • 倫理・・・1時間
  • 唱歌・・・8時間
  • ピアノ・・・1学期に6時間、2・3学期に3時間
  • 楽典・・・1時間
  • 写譜・・・2・3学期に1時間
  • 国語・・・4時間
  • 英語・・・4時間
  • 体操・方舞(「女生徒のみに課す」とされている)・・・2時間
  • 漢文(課外科目)・・・2時間
  • 練習・・・1学期に8時間、2・3学期に10時間

 授業時間数は1学期が毎週26時間で、それに練習8時間がプラスされて計34時間。また2学期・3学期の授業時間数は毎週24時間で、それに練習10時間がプラスされて計34時間となっている。

 

本科> 

 

 声楽部と器楽部の概要のみを記し、楽歌部関係を省略する(楽歌部への入学者は明治33年の1名だけだった)。

 声楽部の生徒はピアノまたはオルガンを履修し、器楽部の生徒は声楽科目を履修する。また器楽部のピアノ・オルガン以外の楽器を専門とする生徒はピアノまたはオルガンも履修する。下記の時間は毎週の時間数を示す。

 

 〔声楽部

  • 声楽
    • 独唱歌・・・各学年で3時間、練習は各学年で3時間
    • 諸重音唱歌・・・各学年で5時間
  • 器楽(ピアノ又はオルガン)・・・各学年で2時間、練習は第一学年6時間、第二学年7時間、第三学年5時間

 〔器楽部

  • 器楽
    • ピアノ・オルガン専門・・・各学年で3時間、練習は第一学年は14時間、第二学年は15時間、第三学年は13時間
    • 他楽器専門
      • ヴァイオリン、箏等・・・各学年で3時間、練習は第一学年は8時間、第二学年は15時間、第三学年は13時間
      • ピアノ又はオルガン・・・第一学年のみ2時間、練習は4時間
  • 声楽
    • 諸重音唱歌・・・第一学年は5時間もしくは3時間、第二・第三学年は3時間

 以下は声楽部と器楽部で共通するカリキュラムである。

  • 倫理・・・各学年で1時間
  • 和声学・・・第二・第三学年でそれぞれ2時間
  • 楽典・・・第一学年で1時間
  • 歌文・・・各学年で3時間
  • 楽式一般・・・第三学年で2時間
  • 音楽史・・・第一・第二学年でそれぞれ2時間
  • 音響学・・・第一学年で2時間
  • 審美学・・・第三学年で2時間
  • 英語もしくは独、仏語・・・各学年で3時間
  • 体操・方舞(「方舞は女生徒のみに課す」とされている)・・・各学年で2時間
  • 課外学科
    • 生理学・・・各学年で1時間
    • 心理学・・・各学年で1時間
    • 楽器構造学・・・各学年で1時間
    • 調律法・・・各学年で1時間

 各部、各専門の毎週の時間数は次の通り。

  声楽部:授業(23時間~25時間)+練習(9時間~11時間)

  器楽部のピアノ・オルガン専門:授業(19時間~21時間)+練習(13時間~15時間)

  器楽部の他楽器専門:授業(19時間~21時間)+練習(13時間~15時間)

 

 カリキュラム改定前と大きく異なるところは、本科を声楽と器楽、そして器楽はピアノ・オルガンとその他の楽器に分けて、専門領域を明確に区分けしていること、ピアノとヴァイオリン以外の楽器を第一学年から学べるようにしていること(箏が含まれているのが注目される)、そして生徒が専門実技に取り組む時間をかなり増やしている点であろう。師範学校の附属から再独立させた意気込みのようなものが伝わってくる。例えばピアノは第二学年では改定前は週に10時間であったが、改定後は授業3時間と練習15時間で計18時間となっている。しかし前述したように「練習」の内容が不明で、時間数の増加だけを見ても評価し難いところがある。

 なお上記の開設科目のうちの『歌文』の授業内容であるが、先月のブログで紹介した浅野麻依氏の論文には「その試験において、『大鏡』や『新古今集』など、古典文学の読解力が問われているため、国語学および国文学が教授されていたと推察される」と書かれている。

    明治35年に小松耕輔、明治37年には山田耕筰、そして明治38年には信時潔が予科に入学し、それぞれ本科に進んでいく訳だが、彼らの在学中のカリキュラムは以上のようなものであった。瀧廉太郎が在学していた頃とは教員数の規模も含めて随分と違っていたことが分かる。

 

研究科

 

 明治34年・35年の一覧には「研究科は声楽、器楽、作歌及び作曲を専攻する者の為にこれを設(ま)く」と記されている。カリキュラムと毎週の授業時間数は以下の通りであるが、第一学年のみが定められていて、第二学年は「声楽、器楽、作歌、作曲のうち一科目を専攻する」としている。なお作歌は本科の楽歌部とともに明治42年に廃止された(作歌への入学者はいなかった)。ここでは作歌関係の記載を省略する。

 

声楽〕一年

  • 声楽
    • 独唱歌・・・2時間もしくは3時間
    • 諸重音唱歌・練習・・・2時間
  • 唱歌指揮法・・・3時間
  • 作曲・・・1時間
  • 聴音・・・3時間

 毎週の時間数は授業12時間、練習22時間の計34時間

 

ピアノ、オルガン専門〕一年

  • 器楽
    • ピアノまたはオルガン・・・3時間
  • 作曲・・・2時間
  • 聴音・・・3時間
  • 管弦楽指揮法・・・2時間
  • 合奏練習・・・2時間

 毎週の時間数は授業12時間、練習22時間の計34時間

 

他楽器専門〕一年

  • 器楽
    • ヴァイオリン・・・3時間
    • ヴィオラその他・・・1時間
  • 作曲・・・2時間
  • 聴音・・・3時間
  • 管弦楽指揮法・・・2時間
  • 合奏練習・・・2時間

 毎週の時間数は授業13時間、練習21時間の計34時間

 

作曲〕一年

  • ピアノまたはオルガン・・・2時間
  • 作曲・・・4時間
  • 聴音・・・3時間
  • 管弦楽指揮法・・・2時間
  • 合奏練習・・・2時間

毎週の時間数は授業13時間、練習21時間の計34時間

 

 『指揮法』の授業が開校以来初めて開設されている。専門の違いに関係なく『作曲』が必修となっているが、どのような理由からだろうか?それから研究科の段階で何故『聴音』を必修にしているのだろう?しかも3時間もある。

 最後に入試について触れておきたい。明治34年・35年の一覧では予科の入試科目は次のようになっている。

  1. 読書(和漢文)
  2. 作文(漢字交り記事文)
  3. 算術(四則、分数、少数、比例)
  4. 日本地理(大要)
  5. 日本歴史(大要)
  6. 英語
  7. 唱歌(小学唱歌集の程度)
  8. 体格

 このうち『読書』と『作文』は明治36年・37年の一覧では『国語(作文、講読)』にまとめられている。音楽の試験科目は以前と同じで『唱歌』のみである。<小学唱歌集の程度>とあるから簡単そうに見えるが、山田耕筰の自伝『はるかなり青春のしらべ』(かのう書房)を読むと、実際はそうでもなかったようだ。新曲視唱の課題があり、山田はこれにかなり難儀をしたようで「五、六人の職員の列座の中で、黒板に書かれた新曲を歌うのは、考えただけでも恐ろしい事だった。(中略)同じ曲を、二回繰り返して歌わせられ、試験場を出る時には『もう駄目だ』と観念した」と書いている(同書 P.71)。

  それから本科については「本科第一年に入学を許可すべき者は予科卒業の者もしくはこれと同等以上の学力を有する者たるべし」と記され、研究科については「研究科に入学を許可すべき者は本科卒業生中、学芸優等にしてなお将来において進歩すべき見込みあるものとす」となっている。

 なお明治39年に学年暦が改正されて「4月に始まり翌年3月に終わる」となった。

 

 最後に興味深い数字を挙げておきたい。高等師範学校附属音楽学校だった第2期の一覧を見ると、選科の生徒数は5名から9名だったが、師範学校の附属から再独立した第3期の東京音楽学校の明治32年・33年の一覧を見てみると、選科の生徒数は147名に増加している。この増加ぶりは驚異的である。第4期の一覧も見てみたが、選科の生徒数は、再独立以後はずっとこのような状況が続いていた(明治33年・34年の一覧が無く、確認が出来なかったが、小松耕輔が選科に入学した時の選科生の人数も同程度か、あるいはそれ以上だったと考えられる)。これは師範学校の附属からの再独立が、社会的にも反響の大きい出来事であったことを物語っているのではないだろうか。生徒数の増加への対応であろうが、明治34年・35年の一覧に掲載された「敷地建物図」を見ると、校舎を改築して練習室を増やしている。奏楽堂で開催する演奏会で管弦楽曲を演奏するようになったり、日本人による最初のオペラ公演を奏楽堂で行って世間の注目を浴びたりしたのもこの時期である。当時の東京音楽学校の活気が想像されよう。

 

 (来月は第4期について述べます。)

 


2022年 3月

東京音楽学校の明治期のカリキュラム(2)

明治26年から明治32年まで

 

 続いて第2期について述べる。

 一般には余り知られていないと思われるが、東京音楽学校は明治26年9月から明治32年3月までの5年半は「高等師範学校附属音楽学校」となっていた(※注)。だからこの間の一覧の名称は「高等師範学校附属音楽学校一覧」となっている(画像は明治27年・28年の一覧の表紙)。

  ※注:東京芸術大学創立90周年記念『音楽学部の歩み』の年表には、師範学校の附属となったのは明治26年6月と記載されているが、一覧の「沿革略」には「9月11日より東京音楽学校を改めて高等師範学校附属音楽学校とし」と記載されている。

 

 師範学校の附属校となる2年前の明治24年には東京音楽学校存廃の議論が起きていた。恐らく金が掛かり過ぎているとか、そんな理由からだろうが、奏楽堂を含む校舎が建設された僅か1年後に、存続の危機に見舞われたのだった。そして結局、師範学校の附属校に位置付けられることになった。音楽学校を存続させる意義が音楽教員の養成にあると説明することで、その形に落ち着いたのではないかと思われる。

 

 瀧廉太郎はちょうどこの時期の生徒だった。明治27年の高等師範学校附属音楽学校一覧では仮入学(予科生扱いということであろうか?)、明治28年の一覧では本科専修部1年、明治29年では専修部2年、明治30年では専修部3年、明治31年では研究生の箇所に瀧の名が記されている。しかし明治32年・33年の「東京音楽学校一覧」を見ると、瀧は明治31年7月専修部卒業、つまり東京音楽学校の本科卒業生として名前が挙げられている(同一覧 P.84)。それから余談になるが、小説家の島崎藤村が選科に入学したのもこの時期で、明治30年だった。高等師範学校附属音楽学校の明治30年・31年の一覧には選科の生徒として島崎春樹の名(藤村の本名)が記されている(同一覧 p.61)。藤村はヴァイオリンを演奏したそうだが、何の授業を受けていたのかは分からない。

 

 さて東京音楽学校が高等師範学校附属音楽学校となった明治27年・28年の一覧を見ると、カリキュラムは予科については変更なし。本科専修部は第一学年が変更なしだが、『文学(詩歌学、作歌)』が第一学年だけでなく第二学年と第三学年にもそれぞれ2時間ずつ加えられ、更に第二学年では新たに『音楽論(音響学)』が2時間加えられている。授業時間数を毎週30時間とする規則は変わっていないことから、これらの科目が増えた分は、実技系科目の一部を選択にするなどして対応していたのではないかと想像するが、このカリキュラムの小改定は、師範学校の附属校となったことによるものかも知れない。なお研究科は従前と変わらず、カリキュラムは定められていない。

 教員数は明治27年・28年の一覧では23名(うち外国人が2名)となっていて、開校当初と比較すると増えている。瀧廉太郎が本科専修部の生徒だった明治28年・29年の一覧から明治30年・31年の一覧までを見ると、教員数は22名から24名で推移しており、教員数の規模は変わらないが、全員日本人で、外国人はいなくなっている。瀧が学んでいた頃の音楽学校は、このような状況にあった。

 東京音楽学校が開校当初から『文学』の授業を行っていたことについて、ここで少し触れておきたい。浅野麻依氏の『明治後期の東京音楽学校における文学関連科目の実態』(音楽教育学第44-1,2014)という論文をネットで見かけて読んだ。この論文では東京音楽学校の第2代校長となった村岡範爲馳(むらおか・はんいち)の取り組みを取り上げていて、村岡は「文学にも精通した音楽家を養成することを目的とし、文学関連の授業を増加することとした。その中でも、特に重点が置かれたことは、地方から上京した生徒の方言を克服し、唱歌の発音を統一することであった」と述べている。「授業を増加」とあるが、村岡が校長だった明治24年から明治26年の間の一覧を見ると、『文学』の授業時間数は、予科も本科の師範部及び専修部も増加していないので、後述する「授業内容を分野ごとに細分化した」ということではないだろうか?また入学生の約6割が東京以外の出身で、「様々な方言が飛び交っていたため、その統一を目指した」とあるが、“訛りの矯正”ではないか?当時は唱歌の歌詞の発音指導から行わねばならなかったことは想像出来る。「標準語作り」の動きは明治の半ば頃から出てくるが、標準語を一般の人が聴くラジオ放送の開始は大正14年まで待たねばならない。

 浅野氏は「一覧には『文学』や『国語』など広義に記載されているが、実際には発音学や中等文典など、細分化されていた」と述べていて、音楽学校の文学関連科目への力の入れ具合は、一覧から受ける印象以上のものがあったようだ。また浅野氏は文学関連科目の担当教員は「講義以外に、唱歌の作詞、特に、同校主催の演奏会のため、海外の声楽曲および合唱曲に日本語の歌詞を付ける『作歌』(歌詞を作ること)も担当した。(中略)彼らは音楽教育においても、欠かせない存在であった」としている。

 

 (来月は第3期について述べます。)

 


2022年 2月

東京音楽学校の明治期のカリキュラム(1)

開校から明治26年まで


  数ヶ月前に東京音楽学校(東京芸術大学の前身)が明治期に作成した「一覧」を見る機会があった(画像)。これは同校の沿革や規則、カリキュラム(教育課程)、教員の構成と氏名、生徒の氏名と出身地などを記載したもので、開校以来毎年度作成されていた。現在、国立国会図書館デジタルコレクションのサイトで一般公開されている。開校当初はどの様なカリキュラムであったのか、そして瀧廉太郎や小松耕輔、山田耕筰、信時潔らはどの様な音楽家養成のカリキュラムの下で学んでいたのか興味津々で見た。

 明治期のカリキュラムは開校以後、3度改定されていた。1度目の改定は小さなものであったが、2度目には教育組織の改編と大掛かりなカリキュラムの改定が行われ、3度目には修業年限の改正と2度目に改定したカリキュラムを修正したと考えられる改定が行われていた。これを踏まえて、以下の4つの時期に分けて、それぞれの時期のカリキュラムの内容について順に述べていこうと思う。

 

 第1期:開校から明治26年まで

 第2期:明治26年から明治32年まで

 第3期:明治33年から明治41年まで

 第4期:明治42年から明治45年まで

 なお一覧の文章は「漢字カタカナ交じり文」で書かれているので、ここでは読み易くするために、一覧からの引用文のカタカナを平仮名に換えるなど、適宜、現代文に近い文章に直していること、また一部で読点を補ったことを予めお断りしておく。それから「バイオリン」の表記が第3期のカリキュラム改定から「ヴァイオリン」に変わっているが、これについては表記は統一せずに、そのままにした。しかし「ヴィオロンセロ」は「チェロ」に、「フリュート」は「フルート」、「トロンペット」は「トランペット」にそれぞれ表記を変えた。

 

 今月のブログでは第1期のカリキュラムについて述べる。

 先の画像は明治22年・23年(年度で言えば明治22年度)の一覧で、開校時のものである。明治22年1月に東京音楽学校規則が制定され、学科(正科)は予科及び本科で構成され、本科は師範部と専修部に分けられた。修業年限は予科が1年、本科は師範部が2年、専修部が3年で、入学年齢は満14歳以上だった。言うまでも無いが、師範部は音楽教員の養成、専修部は音楽家の養成を目的としていた。

 この明治22年・23年の一覧には教員は校長を含めて13名が記載されていた(うち外国人は2名)。学年暦は9月に始まり、翌年の7月に終わるとされ、3学期制であった。また授業時間は毎週30時間とすることが規則で定められていた。この頃の予科のカリキュラムは次のようになっている。全ての科目の授業は一年を通じて毎週行われた。記載の数字は授業ごとの一週間あたりの時間数を示している。

 

予科

  • 倫理・・・1時
  • 唱歌(単音唱歌)・・・10時
  • 洋琴(ピアノ)・・・9時
  • 音楽論(楽典・写譜法)・・・3時
  • 文学(和漢文)・・・3時
  • 英語・・・2時
  • 体操・舞踏・・・2時

 合計すると一週間あたりの授業時間数は30時間で、全科目が必修ということになり、日曜日を除く週6日が授業日だったので、単純計算では1日当たり授業を5時間受けていたことになる。音楽論の授業に「写譜法」が含まれているのが目を引くが、写譜の指導は明治42年の3度目のカリキュラム改定まで20年間続いていた。

 予科から本科に進む際には試験があり、「音楽に特別の才能を有する者は専修部に、音楽教員に適当な者は師範部に進ませるが、入学許可が与えられない者は退学させるか選科(※後述)に転科させる」としていた。 

 本科専修部の学年ごとのカリキュラムは次の通り。予科と同様、全ての科目の授業は一年を通じて毎週行われた。なお本科師範部についてはここでは触れない。

 

<本科専修部一年>

  • 倫理・・・1時
  • 声楽
    • 合唱歌(高等単音唱歌、複音及び諸重音唱歌)・・・8時
  • 器楽
    • 洋琴(ピアノ)・・・10時
    • バイオリン・・・4時
  • 音楽論(音楽理論)・・・2時
  • 音楽史(本邦及び欧州音楽史)・・・2時
  • 文学(詩歌学、作歌)・・・2時
  • 外国語(英語)・・・3時
  • 体操・舞踏・・・2時

 合計すると34時間になるが、規則で定められている30時間の履修方法についての説明は一覧には書かれていない。『声楽』は合唱のみで独唱が無い。開校時から日本音楽史をカリキュラムに入れていたことが分かる。但し、『音楽史』の授業は第一学年のみになっている。『文学』の授業も第一学年のみである。

 

<本科専修部二年>

  • 倫理・・・1時
  • 声楽
    • 合唱歌(高等単音唱歌、複音及び諸重音唱歌)・・・1時
    • 独唱歌(練声術、歌曲演習)・・・8時
  • 器楽
    • 洋琴(ピアノ)・・・10時
    • 風琴(オルガン)・・・8時
    • バイオリン・・・10時
    • ヴィオラ、チェロ、ダブルベース・・・10時
    • フルート、クラリネット、ホルン等・・・8時
  • 和声学(調和の理論及び実用)・・・2時
  • 外国語(英語)・・・6時
  • 体操・舞踏・・・2時

 第二学年になると『声楽』は独唱中心になり、ピアノとヴァイオリン以外の楽器の授業と『和声学』の授業が開始される(『和声学』の「実用」とは恐らく「和声課題の実施」という意味だろう)。また『外国語』の時間が2倍に増える。

 

<本科専修部三年>

  • 倫理・・・1時
  • 声楽
    • 合唱歌(高等単音唱歌、複音及び諸重音唱歌)・・・1時
    • 独唱歌(高等歌曲)・・・6時
  • 器楽
    • 洋琴(ピアノ)・・・9時
    • 風琴(オルガン)・・・6時
    • バイオリン・・・9時
    • ヴィオラ、チェロ、ダブルベース・・・9時
    • フルート、クラリネット、ホルン等・・・6時
  • 和声学(調和及び對位の理論及び実用、楽曲製作法)・・・3時
  • 外国語(英語)・・・6時
  • 教育(教育学大綱、音楽教授法)・・・2時
  • 体操・舞踏・・・2時

 第三学年では『声楽』の独唱歌が2時間減り、また『器楽』も時間数が少し減るが、『和声学』が1時間増えて対位法と作曲法が加えられた内容になり、新たに『教育』の授業が加えられている。指揮法の授業は設けられていない。

 このように開校当初のカリキュラムはベーシックな科目構成になっていたことが分かる。専門領域の区分けがはっきりしないカリキュラム構成なので、専修部ではあるが、どちらかというと教員養成系のカリキュラムに近い印象を受ける。予科と本科を合わせて4年間ずっと『倫理』と『体操・舞踏』の授業を受けさせていたのも注目される。こうした予科と本科専修部のカリキュラムを、当時は何をモデルとして作成したのだろうか?

 瀧廉太郎が在学していたのは、冒頭で示した第2期になるが、第2期のカリキュラム改定では本科専修部は文学関連科目の授業と音楽専門科目の『音楽論』の授業が一つ増えただけなので、瀧がこの学校で受けていた音楽教育のカリキュラムは概ねこのようなものであった。

 なお研究科>の記載はあるが、カリキュラムは特に定められていない。研究生の身分についてのみ書かれていて、研究期限を2年をもって1期とすること、授業料は徴収しないこと、時々本校の授業を補助すること、官庁の依頼によって学校に派遣されて授業を実修することがあることなどが記されている。

 それから選科>であるが、明治22年・23年の一覧に記載の規則には「洋琴、風琴、バイオリン、唱歌の中、特に一科目もしくは二三科目を選びて学習せんと欲し入学を願い出る者あるときは試験の上選科生として入学を許す」とあり、入学は男女を問わず、年齢は満9歳以上となっている。正規の課程(正科)とは異なり、1年以上在学して試験に合格すれば修業証明書がもらえるというコースである。

 ※選科生が受講できる科目は、第2期の明治31年・32年の一覧から「唱歌、バイオリン、洋琴、風琴、箏等」に変更になっている。

 生徒数は、明治23年・24年の一覧には研究生3名、専修部三年生9名、専修部二年生7名、専修部一年生13名、師範部二年生4名、予科生17名、選科生23名の氏名が記されており、また明治24年・25年の一覧には研究生6名、専修部三年生7名、専修部二年生8名、専修部一年生8名、師範部一年生6名、予科生14名、選科生19名の氏名が記されていて、生徒数の規模はこの程度だったようだ(但し、第3期に入ると選科の生徒数がかなり増える)。

 一覧に掲載の規則には入学定員に関する記述はない。入試科目は明治23年・24年の一覧では次のように記載されている。

  • 体格(身体健康)
  • 学力(高等小学校卒業以上もしくはこれと同等の学力)
  • 唱歌(唱歌集初編卒業以上)
  • 英語(綴字、読法、文法の類)

 これが記された入学規則の条文には「予科」とは書かれていないが、試験内容から見て予科の入試科目だろう。音楽の試験は『唱歌』のみになっている。このことから選科の入試も『唱歌』で行っていたのではないかと考えられるが(一覧には具体が書かれていない)、予科と選科とでは当然レヴェルに差を設けていたであろう。また規則には「選科より正科に転ずる者も亦(また)同じ」とあり、選科の生徒はこの予科の試験を受けて予科に入学し、本科に進むことが可能だった。だから正科の入学希望者にとって選科は“予備校”にもなった。小松耕輔が選択したのはこの方法で、小松は選科に入学してから予科に転じた。

 

 (この話題は来月も続きます。来月は第2期について述べます。)