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2021年 12月

島崎藤村とドビュッシー

 

 小説家の島崎藤村(1872~1943)は1913年(大正2年)5月にフランスに渡り(帰国は1916年7月)、滞仏中の1913年8月から翌年5月まで東京朝日新聞に寄せたパリ通信をまとめた『平和の巴里』という作品を1915年(大正4年)1月に出版している。これは現在、国立国会図書館デジタルコレクションで一般公開されていて、自由に閲覧・ダウンロードできる(画像はその一部)。日本人によるドビュッシーの音楽の受容史を語る際には必ずと言ってよいほど取り上げられる文献である。

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936135

 

 藤村がパリ滞在中にドビュッシーの作品に興味を持ち、ドビュッシーがピアノを演奏したりオーケストラを指揮したりしたコンサートを聴きに行っていたことは知られているが、これを読めばその中身について大よそのことが分かる。なお第一次世界大戦に突入する前の、まだ平和な時期のパリでの出来事を書いていたことから、作品のタイトルを『平和の巴里』にしたのだろう。巻頭の藤村による序文には「九月三日」の日付けがあり(即ち1914年9月3日)、オーストリア(当時はオーストリア=ハンガリー帝国)がセルビアに宣戦布告した頃(同年7月25日)から「巴里は最早平和の都ではなかった」こと、戦火を避けてフランス中部のリモージュに疎開したことが記されている。

 さてパリのシャンゼリゼ劇場が完成したのは、正に藤村がパリに到着した1913年の5月だった。その5月には同劇場でロシア・バレエ団によるドビュッシーの『遊戯』やストラヴィンスキーの『春の祭典』の初演が行われており、藤村もシャンゼリゼ劇場でロシア・バレエ団の公演を見たが、そのことに触れた箇所に「夏の夜」とか「巴里に来て見た二月(ふたつき)半あまり」(藤村のパリ到着は5月23日)という文言があるので、8月の初め頃のことかと思ったが、ロシア・バレエ団の公演記録を調べた笠羽映子氏は6月だった可能性があるとしている(同氏著『日本とドビュッシー~明治・大正期を中心に~』早稲田大学比較文学年誌 第23号 p.102)。「パンの神に扮したニヂンスキイが腰から下を彩りまして、人間の身體で居ながらそれで獣の形を失はずに、昼寝の夢から覚めた時の静かな詩のやうな戯れを見せました」とあるから、ドビュッシーの『牧神の午後への前奏曲』を見たのだろう。藤村はこの後に、同劇場でラヴェルの『ダフニスとクロエ』も見ており、その時のダフニス役はニジンスキー、クロエ役はカルサヴィナという初演メンバーだった(『ダフニスとクロエ』の初演は前年の1912年で、シャトレ座で行われており、藤村が見たのは1年振りの再演だった)。この2つの公演を見ただけでも藤村は得難い体験をしたのだなと思う。

 藤村は「仏蘭西に現存するあらゆる藝術を通じて最も私の心を引かれるものゝ一つ ──ドビユツシイの音楽  」と書いている。以下、ドビュッシーのピアノの演奏を聴いたコンサートについて述べた部分から引用する(括弧の付いた文言は、一つ目以外は筆者による補足)。

 「マラルメの詩(ドビユツシイ作曲)を獨唱するために、ラン・パルドオ(ヴァラン=パルドー)夫人が大きな洋琴(ピアノ)を背にして立つたのです。その後方に、深思するかの如く洋琴の前に腰掛け、特色のある廣い額の横顔を見せた、北部の仏蘭西人の中によく見るやうな素朴な感じのする風采の音楽者がパルドオ夫人の伴奏として、丁度三味線で上方唄の合の手でも弾くやうに静かに非常に渋いサツゼスチイヴ(suggestive?)な調子の音を出し始めました。この人がドビユツシイでした。

 昨年私は菅野君と連立つてシヤンゼリゼエの新劇場の方で矢張(やはり)斯(こ)の人自身に指揮したオーケストラを聞ました。あの時ドビユツシイは器楽の演奏者と歌うひとの女の群とを合せて凡そ百人ばかりを指揮しました。」

 上記の最初の歌曲は、恐らく『ステファヌ・マラルメの三つの詩』で、これは1913年作曲だから、初演してさほど間もない頃のコンサートだったのかも知れない。前掲の笠羽論文では、同作品の初演はこの日か同年の3月としている(同書 p.103)。なお初演者はこのヴァラン=パルドーである。後段のオーケストラ作品の方は『選ばれた乙女』か『夜想曲』(第3曲の「セイレーン」に女声合唱あり)のどちらかではないかと思うが、笠羽論文では前者になっている(同 p.103)。

 上記に引用したコンサートではドビュッシーは『子どもの領分』全6曲も演奏した。藤村はこの作品にかなり心を引かれたようで、「小曲の一つ一つが別様の光を放つ音楽の宝石にも譬(たと)へたいと思ひました」と記し、帰国時には楽譜を持ち帰っている。ドビュッシーはこの他に前奏曲集第1巻から『亜麻色の髪の娘』と『沈める寺』を演奏した(出典:中村洪介著『西洋の音、日本の耳』春秋社 p.210)。

 藤村はドビュッシーの印象主義音楽に日本の音楽との近親性を感じたらしく、次のように記している。

 「絵画と言はず、文學と言はず、昔からある吾國の藝術は印象派的の長處(ちょうしょ)を多分に具備して居ります。吾らは生れながらのアンプレツシヨニスト (impressionist)の趣があります。吾國の音楽が姉妹の藝術から獨(ひと)り仲間はづれであるとは考へられませうか。私は今斯(こ)の通信で西洋人の有(も)つやうなエキゾチシズムを自分の國に裏返しにして見やうとは致しておりません。然(しか)しドビユツシイの新曲を聞いて居るうちに、小三郎だの六左衛門だのゝ技藝を思ひ出したのは事實(じじつ)で御座います。」

 そう言えば箏曲家の宮城道雄(1894~1956)が「私にはもっとも新しいドビュッシー、ラヴェルあたりの音楽が何だか自分には一番面白いように思う。何か自分が日本の楽器でやりたいと思うようなことは、ラヴェルあたりの曲に入っているような気がする」と述べている(現代日本思想体系14『芸術の思想』筑摩書房 p.357)。こうした異文化圏の音楽に対して持つ言わば双方向的な感覚とか印象が、どういったところに起因して生まれてくるのか、それを探るのはなかなか興味深いことではないかと思う。ヨーロッパ側から見たジャポニスムで説明するだけではなく、音楽の有り様の根本的なところまで掘り下げて研究している論文があれば、ぜひ読んでみたいと思う。

 さて藤村はまた次のような示唆に富む文章も書いている。

 「私は異郷の客となつて見て今更のやうに藝術の尊さをつくづくと感じました。そして異人種と異人種とが眞に互に理解し眞に互に美質を知り合ふのに藝術ほど近くて正直な道は無いといういふことをしみじみ感じました。(中略)欧羅巴(ヨーロッパ)人というものが眞實(ほんとう)に吾らに解つたのは彼等の藝術が知られてからでは無いでせうか。」

 音楽家のドイツ志向が強かった時代に小松耕輔がパリに留学したのは藤村の帰国後で、第一次世界大戦が終結した後である。推測に過ぎないが、小松は事前に荷風や藤村ら文人たちが書いたものを読んで刺戟を受けていたのかも知れない。小松は学生の頃から音楽評論の活動をしていたから、他者の音楽関係の著作を読んでいた可能性がある。小松の後には池内友次郎がパリ音楽院に入学し、その後は池内門下の作曲家たちを中心に、日本にフランス流派が形成されていく。

 


2021年 11月

永井荷風の音楽評論(続き)

 

 先月のブログの冒頭に挙げた2、3、4、6の評論文のタイトルから類推されるように、荷風はオペラに特に関心が高かったようである。(※先月に引き続き、ワーグナーを「ワグナー」で表記する。)

 2の「歌劇フォースト」は、ゲーテの『ファウスト』に着想を得て書かれたグノーの歌劇『ファウスト』とベルリオーズの劇的物語『ファウストの劫罰』の2作品について、それぞれの内容を詳しく解説したものである。 

 3の「欧州歌劇の現状」で荷風はワグナーの革新性を論じるためにオペラの起源まで遡り、旧来のオペラの手法とは異なる点を指摘し(例えばレチタティーヴォとアリアの区別を廃止して無限旋律としたことなど・・・これは今日では広く知られているが、荷風はライトモチーフの使い方まで踏み込んで論じている)、ワグナー没後には「伊仏それぞれに音楽界の革命が行われた」として、イタリア・オペラと近代フランスの作曲家の方法(ドビュッシーの『ペレアス』には序曲が無いことなど)について言及している。また「近代のオペラに付いて、注意すべきは、その歌謡が往々無韻の散文で書かれて」おり、ワグナーの脚本は「韻律を含む詞章であった」が「最新の傾向を代表すべきものは散文」であると述べている。

 4の「欧米の音楽会及びオペラ劇場」はニューヨークとパリの音楽事情を記したもので、私にはこれが一番興味深かった。20世紀初頭の両都市の状況がどうであったか結構詳しく書いてある。

 荷風は「紐育(ニューヨーク)は音楽の万国博覧会ともいうべき処で、露西亜(ロシア)、独逸、波蘭土(ポーランド)ボヘミヤ、匈牙利(ハンガリー)、伊太利(イタリア)、仏蘭西(フランス)、各国の最大音楽家にして、一度も紐育に招聘せられぬものはなかった。驚くべき紐育の富は、毎年幾多(あまた)の音楽家オペラ俳優をば格外の報酬を擲(なげう)って、欧州各国から招聘する。それゆえ、一時に各国の異なる音楽を聞き分けようとすれば、自分は世界の都という巴里よりもむしろ紐育の方が便利であると思う」と述べている。カーネギーホール、ニューヨーク・フィルやボストン交響楽団などのオーケストラ、メトロポリタン歌劇場、音楽学校のことなどを書いているが、オペラについては「米国の富豪連が、例の米国的虚栄心で、自分の国にも旧世界にまけぬオペラがなくては困ると、いうので、資本主になって今のメトロポリタン劇場を建てた。けれども米国にはオペラを作曲する音楽家もまた演ずべき唱歌俳優も何にもない。あるのは金ばかり」と皮肉っている。

 またパリに関してはコンセルヴァトワール、オペラ劇場、国民音楽協会のことなどを書いている。オペラ劇場について荷風は「いつも新しいオペラ界の戦場となるものは、オペラコミック劇場である。(中略)新しいオペラは、フランス人の作たるとまた外国ものたるとに論なく、出来る限りどしどし登場演奏して音楽界の新気運に投じようと務めている。それ故、最近のフランス並びに欧州の新しいオペラの傑作という傑作の巴里に紹介されたのは、厳しいオペラ劇場ではなくて、皆、このオペラコミック劇場の舞台によってである」と述べ、その例としてドビュッシーの『ペレアス』、ヴェルディの新作オペラ、リムスキー=コルサコフの『雪娘』を挙げている(ヴェルディのはどの作品を指しているのだろう?)。ビゼーの『カルメン』、オッフェンバックの『ホフマン物語』、マスネの『マノン』、シャルパンティエの『ルイーズ』、ラヴェルの『スペインの時』などの初演もこの劇場で行われており、初演作品のリストを眺めると実に壮観である。荷風の言うとおり、この劇場の果たしてきた役割が如何に大きかったかが分かる。

 それから「国民音楽協会」については 「普仏戦争の国難当時に、現存のカミユ・サンサアーンその他によって組織され、一時は名のある新進の音楽家を網羅して、三十年間、フランス音楽界新興の気運を強めた多大の効果を収め得て、今日に至ってはややその活動を終結し、老い疲かれた姿となった」と書いている。 国民音楽協会が創設されたのは1871年で、ドビュッシーの『選ばれた乙女』や『弦楽四重奏曲』『牧神の午後への前奏曲』、デュカスの『魔法使いの弟子』、そしてラヴェルのデビュー作品や中期までの主要作品の殆どが国民音楽協会のコンサートで初演されている。しかし荷風がフランスに滞在した1907年当時には、どうやらこの組織の活動は活気を失いつつあったようだ。ラヴェルが国民音楽協会の運営に反発して退会し、「独立音楽協会」を設立して、自分の作品ばかりでなく、他の作曲家たちの新しい作品を紹介する活動を開始するのは荷風が帰国した翌年の1909年のことである。

 5の「仏蘭西観劇談」は音楽評論ではないが、フランスのベル・エポック時代の伝説的な大女優サラ・ベルナールに関する記述があって注目した。荷風は「サラベルナール夫人は米国興行以来、自分はその十八番ともいうべき舞台を大概見ているが、もう藝が如何にも古い。仕草態度が如何にも芝居らしく形式的である。大体この女優は、どんな役に扮しても、その人にはならず、ベルナール特種の人物になって、それがかえって、成功した次第であるから、トスカでも、ゾライヤでも、また椿姫マルグリットにした処で、つまりは同じような女になってしまう。しかしベルナールの無類な処は、熱情の激動を示す時の表情と辯舌(べんぜつ)で、人間の言語ではなくて、まるで音楽のようである」と書いている。

 6の余篇「オペラ雑観」は、オペラの種類やアメリカ、イタリア、フランス各国のオペラ事情、そしてワグナーの作品について述べたもので、5編の音楽評論の中では最も短く、簡潔にまとめられている。

 

 さて、このように見識の高い荷風であったが、それ故か、帰国後に目にした日本の音楽界にはかなり落胆したようで、その様子について、瀧井敬子氏の著書『漱石が聴いたベートーヴェン~音楽に魅せられた文豪たち~』(中公新書、画像)の「永井荷風の音楽遍歴」では次のように書かれている。

 

 『新帰朝者日記』の主人公に言わせているように、日本では劇場も「社会一部の勢力者が国際上外国に対する浅薄な虚栄心無智な模倣から作つたもの」にすぎなかった。「明治の文明全体が虚栄心の上に体裁よく建設されたもの」、「直ぐと色のさめる贋物(いかもの)」に思われた。「西洋音楽は日本音楽よりも高尚である深遠であると云ふ盲目的判断」が日本人の学生の中にあること、これに対して彼はひどく絶望した(同書 p.209)。

 文中の「盲目的判断が日本人の学生の中にある」とした理由が気になるところではあるが、それはさておき、オペラに関心が高かった荷風は、1938年(昭和13年)に『葛飾情話』というオペラの台本を書く。作曲は菅原明朗(1897~1988)で、瀧井敬子氏の上掲書には、公演は浅草のオペラ館で10日間行われたとあった。菅原明朗はドイツ音楽一辺倒だった当時の日本では珍しいフランス印象派の影響を受けた作曲家だったから、荷風のフランス志向と合っていたのかも知れない。このオペラの一部は平成10年にCD化されたようだが、残念ながら私はまだ聴く機会を得ていない。

 


2021年 10月

永井荷風の音楽評論

 

 小説家・永井荷風(1879~1959)が1909年(明治42年)に書いた『ふらんす物語』には附録として下記の6編の評論文が収録されている(画像は岩波文庫)。

  1. 「西洋音楽最近の傾向」
  2. 「歌劇フォースト」
  3. 「欧州歌劇の現状」
  4. 「欧米の音楽会及びオペラ劇場」
  5. 「仏蘭西観劇談」
  6.   余篇「オペラ雑観」

 5以外は全て音楽評論である。読んでみたら<玄人はだし>の内容で、かなり驚かされた。荷風はワーグナーを「ワグナー」と表記しているので、本稿では全て「ワグナー」で統一して記す。

 荷風は1903年(明治36年)、24歳の時に渡米し、1907年にそのままフランスに渡り、1908年に帰国したが、外遊中は足繫くコンサートに通っていたらしい。明治36年と言えば、日本で文人たちを中心としたワグナー・ブームが起きていた年である。ブームの発端となった姉崎嘲風の論文を荷風も読んでいたようだが、外遊の最終目的地がフランスだったというのが興味を引く。

 荷風は上記1の「西洋音楽最近の傾向」の冒頭で「遠く独り、欧米の空の下に彷徨うとき、自分が思想生活の唯一の指導、唯一の慰藉(いしゃ)となったものは、宗教よりも、文学よりも、美術よりも、むしろ音楽であった」と述べている。そして当時、最先端を行く作曲家であったリヒャルト・シュトラウスとドビュッシーに注目し、「この二人の音楽は、実に最近の音楽中でも更に最新の傾向を示すのみならず、ライン河を境にした人種の別により全く性質を異にした藝術の二方向を語っている。欧州音楽の新状態を知ろうとする者には、この二人ほど適当な代表者を見出すことは出来まい」として、それぞれの作品の特徴などについて語っているのであるが、例えばドビュッシーのオペラ『ペレアスとメリザンド』についてはこんな調子で書いている。

 「このオペラは彼一個の上の大成功であったのみならず、同時に、その一派の藝術家(音楽家のみではない)からいわせると、多年彼らが夢みた新藝術の勝利であって、フランスの音楽をば、独逸音楽の専横ワグナー劇の圧迫から救出した未曽有の傑作と仰がれた。(中略)フランスの音楽は十七世紀にラモーの如き大家が出たにもかかわらず、その後フランス音楽の革新をなした大家は、グルックといい、マイヤベーヤといい、ロッシニといい、音楽上の原籍をフランスに置いてはいたけれど、皆外国人であった。(中略)音楽といえばベートーヴェン前後の独逸音楽、オペラは舞台面のみ綺麗なマイヤベーヤのもので、余りその他を要求しなかった哀れな状態に陥っていた。新しい強いワグナーの音楽は、かかる時、ライン河を越えてフランスへ伝播して来たのである」と述べ、フランスではワグナーが熱狂的に支持され、「マッスネーを初めとして幾多の小ワグナーが現れた」が、「ワグナーは余りに全盛を極める傾きが生じて来た」とし、「熱心な崇拝者であったものも、その中の一部には過度なるワグナー影響の専横に堪えず、何とかして、純フランス式な更に新しい音楽を要求する声さえ聞えるに至った。クロード・ドビュッシーの音楽は、一面表象派文学の動勢に伴い、正しくこの要求に応じて現れたものである」と書いている。

 明治時代の日本に、このようなヨーロッパ音楽の歴史認識を持ち、その観点から当時の最先端の音楽作品の意義を語ることが出来た人物がいたことにまず驚く。中村洪介氏は著書『西洋の音、日本の耳』(春秋社)の中で、「こと西洋音楽に関する限り、明治の文壇において、荷風は敏(上田敏)と並ぶ、或はそれ以上の抜群の存在であった」と評している(同書 p.313)。また音楽学の笠羽(かさば)映子氏の論文『日本とドビュッシー~明治・大正期を中心に~』(早稲田大学比較文学年誌 第23号に所収)には、ヨーロッパの新しい音楽の紹介に努めた音楽評論家の大田黒元雄(1893~1979)が昭和10年に書いた音楽雑誌の記事が引用されており、それには「ドビュッシーの音楽の美しさを文章によって最初に紹介したのは永井荷風であった」と書かれている(同 p.89)。荷風は「西洋音楽最近の傾向」でドビュッシーの主要作品を取り上げて、それらの特徴や感想などを綴り、例えば『牧神の午後への前奏曲』については「曲は古来のサンフォニーとは全く違った趣で、先ず美しい横笛と淋しい立琴の音を主としたオーケストルで夢の如く浮かび出る」などと記し、また『海』については「彼(ドビュッシー)が色彩美に対する無限の熱情と、それを遺憾なく音楽に表したる技巧を窺わしむる傑作である」と称揚している。

 この「西洋音楽最近の傾向」は明治42年(1909年)10月の『早稲田文学』で紹介されたが、日本で初めてドビュッシーの作品が演奏されたのも同じ年の11月だった。演奏したのはルドルフ・ロイテルで、東京音楽学校のピアノと作曲の教師だった(前掲の笠羽論文では「ロイター」と表記され、東京芸大音楽学部の大学史史料室のウェブページでは「ロイテル」と表記されている)。しかし自身のピアノ・リサイタルで取り上げたドビュッシーの作品は『サラバンド』(『ピアノのために』の第2曲)の僅か1曲だけだった。その次に日本でドビュッシーの作品が演奏されたのは2年後で、その年もピアノ作品が2曲だけという状態だった。当時の日本はまだ実際の音による情報が乏しく、文字による情報が先行して流布され、人々は文字情報からその音楽を想像していた時代であった。

 

(この話題は来月も続きます。)

 


2021年 9月

黛敏郎先生のパリ留学記

 

 時々ネットを通じて古書を購入しているが、画像はその内の一冊。新潮社の『芸術新潮』の昭和27年9月号で、黛敏郎先生(1929~1997)による『パリーに學ぶ』と題したエッセイが掲載されている。先生が東京音楽学校の研究科卒業後にパリに1年間留学されたのはもちろん承知していたが、どんなご様子だったのかまでは知らなかったから、興味深く読んだ。秋山邦晴氏の『日本の作曲家たち・上巻』(音楽之友社)には「1951年に、かれ(黛先生)は1年間パリに留学。コンセルヴァトワールでトニー・オーバンのクラスに入る。しかし伝統的な技法には何も学ぶものなしと感じ、1年間の短期で1952年の夏に帰国」とあるから、このエッセイは帰国直後に書かれたものと思われる。先生が23歳の頃だ。20代前半の若者の留学体験記が雑誌に掲載されていることからしても、先生はその頃には既に作曲家として注目されていたことが伺える。

 エッセイには「到着したのが九月中旬だったが、丁度十月にコンセルヴァトワールの教授連が避暑から戻って来て新学期が始まったので、入学したいという確乎たる希望は無かったが兎も角和聲科の教授として、最も令名の高いアンリ・シャラン教授の許でハーモニーを始めた」とあった。そして「作曲家を生むよりは寧ろ和聲法の大家を生むことを目的としてゐるこのクラスの講義に追はれて、一年の留學期間をたゞ馬車馬のやうに終へて仕舞ふことは止まざるを得なかった」と記されている。「入学したいという確乎たる希望は無かった」という記述には驚かされるが、先生がシャランの和声のクラスから始められたことは、これを読むまでは知らなかった。先生が東京芸大に非常勤で作曲を教えに来られるようになった頃、私は学生だったが、先生が「和声は今の学生さんたちの方が出来るんじゃないかな」と仰ったことがあった。戦後の日本人作曲家に多大な影響を与えた『涅槃交響曲』や、ちょうどその頃ベルリンで初演したばかりのオペラ『金閣寺』の作曲者であった先生の存在感はとてつもなく大きく、なぜ和声の技術についてそんなことを言われたのか不思議だったが、このエッセイを読んで、あの言葉の背景の一つに、このようなコンセルヴァトワールでのことがあったのかも知れないと思った。

 トニー・オーバンのクラスに入った経緯については「コンセルヴァトワールの作曲科教授をしてゐるトニイ・オーバンが僕の作品に非常な興味と好意を示し、是非自分のクラスに入れと勧めてくれた」とあり、一週二回の講義も極めて充実した収穫の多いもので、「日本にいては見当もつかなかったこの世界の空気にぢかに接触し得て、始めて自分に不足してゐたものをはっきりと把握し、同時に自分のやって来たことでこれだけは何処へ出しても恥ずかしくないものだといふ自信も得られたのだと思ふ」と述べておられる。またトニー・オーバンのクラスの授業中の雰囲気についても触れていて、学生たちは相当自由にやりたい放題だったらしく、「和気藹々を通り越して、無政府状態に近く」「玄関を入った途端に封建の風がヒヤリと冷たく頬をなで、アカデミズム一点張りの詰め込み教育をやられて顔色もない程のコンセルヴァトワールで、オーバンのクラスだけは全く別世界の風が吹いてゐたやうだ」と書いておられる。どうやら前述の秋山邦晴氏の文面から受ける印象とは違うところもあったようだ。それから面白かったのは「正午にクラスが済むと一同先生を取り巻いて玄関を出、すぐ近くのキャフェへ入ってワァワァ云ひながら、アペリチフの立ち飲みをやるのが常だった」と書いておられたことだ。芸大での黛先生も授業が済むと学生たちを全員引き連れて構内の学生食堂へ行き、酒ではないが皆でコーヒーを飲みながらお喋りするのが常だった。

 エッセイの終わりの方で「フランス楽壇自体は、時折り胸のすくやうな若い在野の連中の活躍はあっても、一般にあまりに伝統的な、あまりにフランス的な所謂中庸を尊ぶ精神のマンネリに蔽われてゐて、日本で想像してゐたやうな新しい藝術の息吹は何だか窒息させられてゐることに気附き、到着当初の感激も次第に色褪せて来る」と述べておられていて、留学を1年で切り上げて帰国された理由は、やはりこの辺りにあったのだろうと思う。

 


2021年 8月

英語の詩に曲を付ける

 

 一般社団法人・東京国際合唱機構が主催する「日本国際合唱作曲コンクール」に今年初めて参加した。この合唱の作曲コンクールの特徴は「使用テキストはラテン語、または英語、またはその混在であること」にあると思う。このコンクールの存在を知ったのは昨年の夏ごろで、過去の入賞作品の演奏がYouTubeで公開されており、それらの作品の水準の高さに注目していた。

 私自身は英語の詩に曲を付けた経験は無かったので、やってみるのも面白そうだと思い始め、年が明けてからエントリーすることを決めて、曲を書いた。テキストはアメリカの小説家で詩人でもあったエドガー・アラン・ポー Edgar Allan Poe (1809~1849)の "To One in Paradise" という詩を用いた(作曲した作品のタイトルも詩のタイトルと同じ)。

 主催者の発表によれば、第7回目となる今回のコンクールには36ヵ国から137作品の応募があり、参加者の国別の状況については主催団体のFacebookで紹介されていた。私の目を引いたのがイタリアから22名、イギリスとスペインからそれぞれ11名の参加があったことで、そのような中で自分の書いた英語の合唱曲がどのような評価を受けるのか注目していた。なお日本からの参加は28名で、少ないような気がしたが、使用テキストをラテン語または英語とするという条件が多少影響していたのかも知れない。

 5月に第一次審査の結果が発表になり、137作品から18作品に絞られた後、最終審査結果の発表が7月24日にYouTubeで行われた。ヨーロッパからの参加者で入賞したのは3人(うち1人がYouTubeでの発表後に失格となり、結局2人になった)。私の作品は佳作に入賞という評価で、順位は第1位から数えて6番目だった。

 さて、英語の詩に曲を付けていて、単語の語尾の子音の処理をどうするか、また音楽の流れの関係からテキストのフレーズの一部分だけをリフレインさせる際に、それをどのように扱うか迷うことがあった。私が施した処理をネイティブが聴いて問題は無いと感じるのか、あるいは変に感じるのかについては判断しかねるところがあったが、コンクールに参加するので、ネイティブに意見を求めることは一切しなかった。

 事前にある程度は予想していたけれども、書き始めてみると、母国語ではない詩に曲を付ける難しさと言うか、戸惑いのようなものをやはり感じた。日本語の詩に曲を付けるのとは勝手が違うのは当然と言えば当然で、実際に体験して初めて気付かされたことが幾つかあったが、それらは私にとっては面白い発見でもあった。

 また作曲している時にはポーの詩を何度も声に出して読んだが、言葉の響きが心に沁みる実に素敵な詩だと思った(上記のコンクールに入賞したのはポーの詩の力によるもので、佳作となったのは私の力不足によるものだ)。ポーのことは小説しか知らなかったから、これも新鮮な発見だった。いつになるか分からないが、今回の経験を踏まえて、次はポーの詩をテキストにした歌曲を書いてみようと考えている。

 


2021年 7月

師の言葉

 

  私の作曲の師である石桁真礼生先生(1915~1996)の作品展が、2020年10月28日に東京オペラシティ・リサイタルホールにおいて無観客で開催され、そのライブ録音がCD化された。作品展の企画と実施に当たられたのは石桁門下の作曲家の方々で、私にとっては先輩方に当たるが、コロナ禍で難儀をされながらも、形として残して下さったことに本当に頭が下がる思いである。

 画像はこの演奏会のために制作されたプログラムの冊子で、表紙には「バッハは、神様のために作曲したが、私には神様はいないから、自分のために作曲する」という石桁先生の言葉が記されている。

 私は先生からこの言葉を直接聞いたことは無かったように思うが、今でも覚えている言葉が幾つかある。「外在律と内在律」「自己凝視」などは度々口にされたし、また書かれたりしたので、弟子たちばかりでなく、評論家などにも知られていたようだ。

 私の解釈では「外在律」とは既存の形式や技法など、作曲する際の客観的な判断材料となるものであり、また「内在律」とは個人の方法や感覚・志向で、作曲家が作品を書く際に音を選別したり構成を考えたりしている時の意識は、この外在律と内在律を往還している状態にあると言える。作品のオリジナリティーを追求し続けていくと、外在律を批判したり、そこから離れたりすることになるが、その往還なり批判を冷静に自己評価する行為を「自己凝視」と言って重要視しておられたのではないかと思う。

 先生は作曲家としては、とことん突き詰めるタイプの方で、その求道的な姿勢に少なからず影響を受けた弟子は多かったのではないだろうか。また先生の言葉が、作曲家として生きる上での指針になっているという弟子も少なくないのではないだろうか。先生は「作曲家」よりも「作家」という呼称をしばしば好んで使われていたように記憶しているが、これは先生の創作家としての意識あるいはスタンスの反映だったのかも知れない。

 私以外の弟子にも仰っておられたのかどうかは分からないが、「三歩下がって師の影を踏まず」を、師を尊んで敬えという本来の意味ではなく、「師の影響を受け過ぎてはいけない」と解釈すべしと言っておられた。最初に聞いた時には驚いたが、芸術分野の師弟関係の望ましい在り方を語っておられたのだろうと思う。また先生は、作曲とは結局は生徒の才能に由来するものであって、指導した教師の技量が影響するものではないという趣旨のことも言われていた。

 プログラムの冊子には「先生の指導は概ね言葉少なげで、沈黙の方が長いことも度々であった」と記されている。私が受けたレッスンでもそれは同様であった。レッスンで先生から発せられた言葉には重みがあったし、レッスンが終わった後で、その言葉について考えさせられたことが多々あった。しかし先生はお酒が入るとやや饒舌になられた。そのご様子は実に楽しげであった。