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2021年 6月

明治期のワーグナー熱と西洋音楽受容の実相(4)

 

 前述の『オルフォイス』が上演された明治36年は、小松耕輔が東京音楽学校の予科から本科に進んだ年である。小松の著書『音楽の花ひらく頃』(音楽之友社、昭和27年)を読むと、『オルフォイス』が上演された時、小松は郷里の秋田に帰省中で、これを見ていない。『音楽の花ひらく頃』は小松自身の日記をもとにした自伝であるが、本科に進級後、『羽衣』の作曲までに鑑賞した演奏会の記述はあっても、自身のオペラ体験については触れておらず、明治39年(文脈から判断して3月の終わりか4月の初め頃か?)突然「此の頃世間の歌劇熱に刺戟されて音楽新報社に於いても同社同人を中心として歌劇の研究を行うこととなり新たに樂苑會を組織し、第1回の公演を催すこととなった。歌劇は私が作詩作曲をすることとなり、謡曲より取材し<羽衣>1幕を新作した。(中略)私は卒業を目の前に控えて二ヵ月ばかりで書き上げた」という記述が現れる。初演は6月2日だったから練習期間の短さは推して知るべしだろう。音楽新報社は東京音楽学校の教授であった山田源一郎が退職後に主宰した組織で、雑誌『音楽新報』(後に『音楽界』に改称)を発刊していた。小松は編集を手伝ったり、掲載文を書いたりしていた。しかし何故急いで作曲し、上演しなければならなかったのか、『音楽の花ひらく頃』にはその理由について何も書いていない。

 小松の『羽衣』のハーモニーは単純でピアノの伴奏は唱歌の簡易伴奏のようであり、同じメロディーが何度も現れてハ長調が延々と続く・・・これらは短期間で作曲した影響というよりも作曲の技術的な問題であり、オペラ体験の希薄さもかなり影響しているように思える(断っておくが、先月のブログで紹介したように、当時、オペラ体験が希薄だったのは小松だけではない)。事前にヨーロッパの既存のオペラ作品の研究を行っていたのかどうか、また作曲の過程で東京音楽学校の外国人教師の指導・助言を受けたのかどうかは不明だ。小松自身は、初演した年に出版した楽譜に「歌劇と云はんは、なほ餘にうしろめたし」と書いている。作品としては試作の域を出るものではないが、明治期の作曲家志望の青年の果敢なチャレンジだった。

 ところで伊藤直子さんという方の『「樂苑會」のオペラ活動について』と題した論文をネットで見掛けた(ネットの情報では早稲田大学演劇博物館「日欧・日亜比較演劇総合研究プロジェクト」成果報告集に所収とのこと)。それには『羽衣』を初演した樂苑會の第1回の演奏会のプログラムが載っていて、ピアノ独奏やヴァイオリンの演奏に加えて、琴、尺八の演奏もあったことが分かる。洋楽と邦楽を混ぜ合わせたプログラムについて、先々月のブログで紹介した竹中亨著『明治のワーグナー・ブーム』で、著者は「人気の乏しい洋楽をいかに多くの人々に聴かせるか、主催者側は演奏会の企画にずいぶんと知恵を絞った。(中略)ジャンルや趣向を多種多様にすることで、できるだけ多くの聴衆の趣味に合わせようというわけである。この推測を裏づけるのが、演目構成の和洋混淆ぶりである。つまり、1回の演奏会のプログラムに、洋楽と邦楽の双方が入っているのである」と述べている。

 また同書で著者は、明治42年6月の東京音楽学校の定期演奏会で演奏したメンデルスゾーンの歌劇『ローレライ』(演奏会形式による上演、著者は明治43年と認識か?『ローレライ』は未完成作品のため部分的な演奏と思われる)については、「外国人教師がドイツ語で独唱するのに、合唱団が日本語で唱和するという、当時の評者の言うところの<鵺(ぬえ)式の遣り方>だった」と記している。

 

 ◇     ◇     ◇

 

  さて、今年3月から続けてきたこの話題についてはこの辺でひとまず締め括っておきたい。

 明治期の西洋音楽の受容は、当時の社会的潮流であった欧化の波に乗って進み、明治30年代には東京音楽学校を中心とした受容の基盤が概ね形成されたが、西欧の音楽文化を範とした理想像と日本社会の現実との乖離は言うに及ばず、いくつか例を挙げて示したように、今から思えば奇妙なこと、矛盾に感じるようなことも一方では起きていたのだった。それは異文化の移入には付いて回るものと言えるかも知れないが、とにかく前に進むことを考え、前に進めば良しとした、そんな気風の人達によって洋楽の受容が推し進められていった時代ではなかったかと思う。ひたむきな憧れと真面目さを感じるが、その姿勢にはどこか楽天的なロマンティシズムが同居していたように私には感じられる。

      


2021年 5月

明治期のワーグナー熱と西洋音楽受容の実相(3)

 

 中村洪介氏は著書『西洋の音、日本の耳』(春秋社、画像)の中で、明治30年代の日本のワーグナー熱について、明治36年にピークを迎え、「ヴァーグネリアン・ペストが蔓延した年であった」と述べている。その火付け役は姉崎嘲風(あねさき・ちょうふう、1873~1949)という人物で、音楽家ではなく宗教学者だった。姉崎はドイツ留学中に楽劇『ラインの黄金』を観て、熱狂的なワグネリアンになり、その論文が雑誌『太陽』に掲載されたことがブームの始まりであった。

 石川啄木も姉崎に刺激されたワーグナー信奉者の一人であったが、中村氏は「彼が実際に耳にしたヴァーグナーの音楽は『タンホイザー』と『ローエングリン』の極く一部」などに過ぎず(中村氏によれば、聴かせたのは土井晩翠)、「啄木のヴァーグナー観は音楽そのものによらず、専ら活字によって形成された」と述べている。

 小説家であり劇作家であった坪内逍遥もワーグナー・ブームを多分に意識していたのであろう、明治37年に『新楽劇論』を発表する(「国立国会図書館デジタルコレクション」で一般公開されている)。当時の印刷技術が未熟だったためか、印字が滲んで判読が難しくなっている箇所があるが、読んでみたら実に面白かった。逍遥は「近頃はしきりにオペラを作れ、オペラを作れという呼聲が聞えますが、(中略)我が國にオペラが出来て、欧州人に見せて恥かしくなく、こそばゆくない時代は先づ先づ遠いことと思はねばなりますまい」とし、「外国種を蒔いたり植えたりした所で、容易に育つもので無い」「西洋楽は尚ほ其の儘の外国からの借用物、まだまだ國楽としての特質はありません」と述べている。

 

 しかしワーグナー作品の体験の有無はさておいても、そもそも明治30年代半ばまでの国内での人々のオペラ体験はどの程度のものだったのだろうか?

 日本での外国人による最初のオペラ上演の試みは、明治27年(1894年)に東京音楽学校の奏楽堂で行われたグノー作曲の『ファウスト』であるとするのが通例のようだが、増井敬二著の『日本オペラ史~1952』(水曜社、画像)を読むと、明治初期から既に海外の多くの歌劇団が来日公演を行っていたことが分かる。しかし一般の関心が低く、増井氏は明治36年までの日本社会は「オペラ不毛の時代」が続いていたとしている。

 日本人による最初のオペラ公演が行われたのがその明治36年(1903年)で、グルックの『オルフォイス』が東京音楽学校奏楽堂で上演され、画期的な出来事として注目された。しかし当初上演を計画していたのはワーグナーの『タンホイザー』だった。その計画の背景には当時の「ワーグナー熱」があったのは言うまでも無い。だが『タンホイザー』の上演は無理で、代わりに取り上げたのが『オルフォイス』だった。ところがオーケストラの奏者は揃わず、しかもフルスコアすら無かったらしく、伴奏は外国人教員が演奏するピアノのみだった。歌詞は訳詞が使われた。

 どうやら『オルフォイス』の上演までは、関心の低さもあって国内での人々のオペラ体験は実質的には殆ど無きに等しいような状態だったが、明治30年代半ばになって、ようやく日本人の手で何とかオペラが上演出来るようになり、この『オルフォイス』の上演がきっかけとなって一気にオペラが注目され、議論されるようになったということのようだ。小松耕輔の明治39年の『羽衣』の誕生は、明らかにこのライン上にある。

 

(来月に続きます。)

 


2021年 4月

明治期のワーグナー熱と西洋音楽受容の実相(2)

 

 私は明治期の西洋音楽受容の実相がどのようなものであったのかを、もう少し詳しく知りたいと考え、以下に掲げる文献を読んだ。なお本稿では「ワーグナー」と「ヴァーグナー」の2種類の表記が混在しているが、「ヴァーグナー」と記している場合は引用した文献の表記に従っていることをお断りしておく。

  1. 明治のワーグナー・ブーム~近代日本の音楽移転』竹中亨著、中央公論新社(画像)
  2. 西洋の音、日本の耳~近代日本文学と西洋音楽』中村洪介著、春秋社
  3. 日本のオペラ史』日本オペラ振興会編
  4. 日本オペラ史~1952』増井敬二著、昭和音楽大学オペラ研究所編、水曜社
  5. 漱石が聴いたベートーヴェン』瀧井敬子著、中公新書
  6. 『オペラ学の地平』(彩流社)所収の瀧井敬子著「森鴎外とオペラ
  7. 『文学界』2004年5月号(文芸春秋社)所収の瀧井敬子著「森鴎外のヴァーグナー体験

 2の文献は小さな文字で500ページ以上をびっしりと埋めた大著だ。著者は徹底的に調べ上げたようで、かなり細かいことまで書いてあったので、関心のある部分を拾い読みしていった。

 5~7の文献の著者の瀧井敬子氏は、日本の西洋音楽受容史の研究──特に森鴎外に関わる分野で多数の著作がある方だ。6と7にはその森鴎外の名があるが、先月のブログで明治30年代のワーグナー熱は特に文人たちを中心に起きたと書いたように、2の文献では島崎藤村、上田敏、永井荷風、石川啄木の西洋音楽体験が綴られ、文献5でも夏目漱石以外に森鴎外、幸田露伴、島崎藤村、永井荷風の西洋音楽体験が述べられている。彼らが文筆家であったが故に書き残した資料が多く、結果としてそれらを手掛かりに当時の西洋音楽受容の状況を記した文献が多くなっているのではないかと推察する。また当時の日本では影響力があった文人たちが啓蒙したことで、洋楽の受容が後押しされていったということがあったのかも知れない。森鴎外が小松耕輔の『羽衣』の楽譜に序文を寄せた経緯も、どうやらこの辺りにありそうである(この序文は先月のブログで挙げた国立国会図書館デジタルコレクションの楽譜に記されており、森鴎外は「はしがき」として源高湛の筆名で書いている)。

 なお1の文献はタイトルに「明治のワーグナー・ブーム」とあるが、この表題に関連した記述は最初と最後だけで、ちょっと拍子抜けしてしまった。全体としては「東京音楽学校史」とも言えるような内容で、他の文献と同様に上田敏や森鴎外、石川啄木らの西洋音楽体験にも触れている。

 この1の文献で、著者の竹中氏は当時の「ワーグナー・ブームの奇妙さ」として、「明治のワグネリアンのなかで、ワーグナーの楽劇の舞台をわが目で観たことのある者はほとんどいなかった」「ワーグナーの音楽を知らずしてワーグナーに心酔したのが、明治のワーグナー・ブームの実相であった」と述べている。また2の文献の著者の中村氏は「ヴァーグナー聴かずのヴァーグナー論者を多数生み出すという特異現象」が起きた要因は、「近代化を急ぐ日本の文壇にとって<思想家>ヴァーグナーが論ずるに恰好の人物であったこと、またたとえ音楽を充分聴かず専ら活字に拠ってもヴァーグナーの<思想>は論じられたこと」にあると述べている。

 

(来月に続きます。)

 


2021年 3月

明治期のワーグナー熱と西洋音楽受容の実相(1)

 

 2019年の12月から2020年の6月まで、小松耕輔(1884~1966)が東京音楽学校在学中の明治39年(1906年)に作曲した歌劇『羽衣』をリメイクする仕事をしていた。明治30年代の半ばには当時ヨーロッパを席巻していたワーグナーの総合芸術が日本の、特に文人たちを刺激して「ワーグナー熱」が起きていたが、小松耕輔も当時の熱気に影響されて、日本初の創作オペラとなる『羽衣』を作曲したようだ。

 しかしその楽譜を見れば分かるが(明治39年に出版された『羽衣』の楽譜は「国立国会図書館デジタルコレクション」で一般公開されている)、『羽衣』を書いた当時の小松の作曲技術は初歩的な段階にあり、ドラマティックな音楽を構築する技法までは身に付けていなかった。

 日本における西洋音楽の受容は19世紀半ばの開国を契機に進んだが、それからまだ半世紀しか経っておらず、明治期の音楽家たちの西洋音楽を吸収しようとする熱意には相当なものがあっただろうと想像するが、まだまだこれからという状況であった。

 

 話は明治初期に遡る。

 東京音楽学校の初代校長となる伊沢修二(1851~1917)は、官命で明治8年にアメリカに留学するが、東京新聞出版局編の『上野奏楽堂物語』(画像)所収の森節子著「西洋音楽の黎明と開花」によれば、伊沢は入学したボストン郊外のブリッジウォートル師範学校の「音楽」の科目だけがどうしても駄目で、校長から「君はどうも唱歌ができぬということだが、それは実に無理もないことで、君は極東の日本国人であって、貴国の音律はわが米国のとは違ってをる。故に君だけには今後唱歌を免除してやるから安心せよ」と言われ、「片輪修行で国に帰れるものかと、実に三日ばかり泣いて悲しんだ」ほどだった(それぞれ原文のまま引用)。

 伊沢はその後、ボストンでルーサー・ホワイティング・メーソンの指導の下で音楽を学び、メーソンは明治13年に明治政府の招聘で来日し、東京音楽学校の前身である「音楽取調掛」で実技や理論の指導を行った。メーソンは今でも歌い継がれている「蛍の光」や「仰げば尊し」を含む『小學唱歌集』の作成に関わったり、ピアノ教則本の『バイエル』を導入したり、現在に至る日本の音楽教育の基礎の形成に大きな足跡を残したが、これらは言うまでも無く、彼が専門とした「初等音楽教育」であり、彼が行ったのは音楽教員の育成だった。

 メーソンは明治15年に帰国し、翌年からはフランツ・エッケルトが管弦楽を指導した(エッケルトは軍楽隊の指導も行った)。音楽取調掛の最初の卒業生による演奏会が開かれたのは明治18年だった。

 東京音楽学校が設置されたのは明治20年。明治・大正期の洋楽の中心となる奏楽堂を含む校舎が建設され、開校したのは明治23年だった。メーソンのような音楽教育家ではなく、芸術音楽家のルードルフ・ディトリヒをオーストリアから東京音楽学校のお雇い教師として招聘したのは明治21年で、明治30年代になって、東京音楽学校の教師陣は「それまでの初歩的な教師像を脱して世間の評価を持つ演奏家という人材で構成されるようになった」(前掲『上野奏楽堂物語』)。そして明治31年からは東京音楽学校で定期演奏会が開催され、明治33年頃から管弦楽曲が演奏されるようになる(ちなみに前掲書に記載の記録によれば、明治33年5月の演奏会ではシューベルトの交響曲『未完成」の第1楽章、メンデルスゾーンの『結婚行進曲』が演奏されている)。

 こうして概観してみると、日本において西洋音楽受容の基盤が形成されたと言えるようになるのは、だいたい明治30年代頃であったことが分かる。作曲家では瀧廉太郎が明治31年に東京音楽学校本科を卒業し、小松耕輔の同校予科(本科に進む前の1年の教育課程)への入学は明治35年、山田耕筰の予科入学が明治37年、信時潔の予科入学が明治38年で、瀧は夭逝したが、小松、山田、信時らの後年の業績を考えると、明治30年代には東京音楽学校は洋楽の受容を支えていく人材を養成する機能を果たしつつあったようだ(但し、作曲科—当時の名称は作曲部—の設置は昭和6年と遅い ※脚注参照)。しかし基盤形成とは言っても、それは東京音楽学校や軍楽隊を中心とした非常に限られた範囲のことであり、一般にはまだまだ西洋音楽の体験が乏しい時代であった。

 そのような状況にありながら、明治30年代に何故いきなりワーグナー・ブームが起きたのだろうか?

 

 

(来月に続きます。)

 

 

 (注)東京芸術大学創立90周年記念『音楽学部の歩み』(昭和53年2月)には「昭和7年4月 規則を改正、本科に作曲部を設ける」とありますが、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されている『東京音楽学校一覧』(沿革や規程などを記したもの)を調べたところ、昭和7年・8年の一覧の「沿革略」に「昭和六年四月 文部省令第十三號ヲ以テ本校規程中改正セラレ學則中本科ニ作曲部ヲ加フ」とありました。このブログではこれを根拠として作曲科(作曲部)の設置年を「昭和6年」と記述しています。

 


2021年 2月

作曲家のコスモロジー

 

 作曲家の湯浅譲二さんは「コスモロジー Cosmology」(宇宙論ー広義には哲学や宗教、神話なども含まれる)という言葉を好んで使っておられるようで、『音楽のコスモロジーへ』と題した対談集も出版しておられる(画像、出版:青土社)。数か月前に見かけたネットの動画の中で、湯浅さんが語っておられた言葉がとても印象的だったので、その中から3点書き留めておいた。

  • 「作曲というのは人間の、作曲家のコスモロジーの反映として出てくるものと思っている。」
  • 「僕は非人間的な曲を書きたいといつも思っている。宇宙的な時間・空間というのは非人間的な場だ。人間の宇宙に相対する時の宇宙は非人間的だ。」
  • 「ものを作るというのは、知らない世界に連れて行ってくれることだ。」

 1点目の「作曲は作曲家のコスモロジーの反映」というのは全くその通りだと思う。2点目の「非人間的な曲」というのは、人間の情感を排した世界、空間、あるいは時間を描くという意味であろうが、湯浅さんが希求しておられる音楽のあり方が端的に表された言葉のように思う(ただ音楽作品である限り、作品をリアリゼーションする人間の演奏行為において情感を排除するのは実際には難しいと思う。恐らく湯浅さんはそこまでは否定していないように思うけれども、どうなのだろう?)。3点目は警句として理解した。

 湯浅さんのお話を聞きながら、私自身が現代音楽と向き合い出した頃を思い出した。私が湯浅さんの作品に最初に触れたのは高校2年生の時で、かなり昔のことだから記憶が曖昧だが、NHKのFM放送の番組で聴いた「箏とオーケストラのためのプロジェクション『花鳥風月』」だったように思う(当時私は大阪に住んでいて、音楽の情報収集にはFM放送は大変貴重だった)。その後に「2本のフルートによる『相即相入』」を聴いたりしていた。

 そしてその翌年、1970年に大阪万博が開催されて、会場内の「鉄鋼館」のスペースシアター(当時の最先端の音響装置が設置された円形のホール)で邦人作曲家によるパネルディスカッションが開かれることになり、聴きに行った。湯浅さんの他には武満徹さん、林光さん、高橋悠治さんらが出席しておられた。パネルディスカッションが終わり、聴衆と作曲家が個別に対話しましょうということになり、武満さん、湯浅さんとお話をさせて頂いたが、お二人とも高校生だった私の質問に、とても丁寧に答えて下さったことを覚えている。それから50年が過ぎた。

 


2021年 1月

パウル・ベッカーのオーケストラの音楽史観

 

 ヨーロッパ芸術音楽の底流にある本質を捉えて、音楽様式が変化していった理由を論理的に、また歴史的に俯瞰しながら順序立てて説明するというのは、そう容易なことではないと思うけれども、古典派からロマン派を経て20世紀初頭に至るまで、作曲家たちが色彩的管弦楽法を追い求めていった過程と方法を見事なまでに説明し切ったのがドイツの音楽評論家パウル・ベッカー Paul Bekker (1882~1937)の『オーケストラの音楽史』(松村哲哉訳、白水社)である。

 パウル・ベッカーの著作にはこの書よりも先に著した『西洋音楽史』(河上徹太郎訳、河出文庫)があり、その中でベッカーは「和声的器楽の時代」という概念を示し、「元来和声と楽器の音とは相互に密接に結びついていて、楽器の音の中には和声が内在的に含まれており、音響現象としての和声は、本質的に楽器的なものなのである」と述べ(『西洋音楽史』p.247)、『オーケストラの音楽史』も古典派から20世紀初頭までのオーケストラ作品を「和声的器楽の時代」という概念で括って論じている。

 確かに18世紀半ば以降のホモフォニー(和声音楽)の時代は、管弦楽が編成を整え、拡大し、発展していった時代であり、同時に、和声構造がシンプルで機能が明確な音楽から、次第に和声法が巧妙になって半音階の使用が浸透し、機能が曖昧になった音楽へと移り変わっていった時代である。幻想的な世界の描写や揺れ動く情感の表出に重きを置いたロマン派の作曲家たちは、和声と音色を結び付けた楽器法を志向するようになり、例えば木管楽器の使用音域を拡大したり、弦楽器ではミュートの使用やパートの分割、ハーモニクスを使ったりするなど、様々なオーケストレーションの技法を開発していった。つまり表現の繊細さや多様な色彩感を追求した結果、和声法と共に楽器法も巧妙になっていった。そして19世紀末から20世紀初頭にかけて「表現手段としてのオーケストラを自在に扱える達人たち」が登場する(ベッカーはリヒャルト・シュトラウス、クロード・ドビュッシー、ジャコモ・プッチーニの3人の名を挙げているが、和声とオーケストレーションの仕掛けに凝りに凝ったラヴェルに言及していないのは何故だろう?)。そして無調音楽、ドデカフォニー(十二音音楽)の出現である。ベッカーは「シェーンベルクがその作品を通して伝えているのは<オーケストラは終わった>ということ」であり「ハーモニー中心の楽曲展開という手法も終わりを迎えた」と述べている。

 このようにオーケストラ音楽の歴史を楽器が本来持っている和声的な構造原理を根拠として「和声的器楽の時代」という捉え方で説き、古典派の時代にオーケストラ音楽の基本的な枠組みが整えられ、ロマン派の時代に管弦楽法が発達し、また編成も拡大して、19世紀末から20世紀初頭にかけて頂点を迎えた後、拠り所としていた和声のシステムが崩壊し、ドデカフォニーが出現するに至って「和声的器楽の時代」が終焉したとする説明は、私には腑に落ちるところが多い。そしてベッカーは「オーケストラの歴史という観点からすると、今や音楽界全体が過去の遺産だけを頼りに活動しているように見えるだろう。コンサートは繰り返しの連続である」とも言っている。つまり「和声的器楽の時代」に作曲されたオーケストラ作品が繰り返し演奏されているという指摘である。『オーケストラの音楽史』が書かれたのは1936年であるが、コンサートは繰り返しの連続という状況は、今でもそう大して変わっていないのではないだろうか?またこれから先、変わることはあるのだろうか?